二次創作:誕生日

  数日前から、純の様子がおかしい。
 奇妙な行動をするのはいつものことだが、それとは雰囲気が違うような気がする。妙にウキウキとしていて、ここ数日は一際宅配の荷物も多い。
 今日は朝からキッチンの整理でもしているのか、いろいろなものが出しっぱなしになっているのを昼食時に見かけたし、昼食後にリビングでだらけているのが申し訳なくなるくらいに今もくるくると忙しげだ。
 キッチンからはずっとなにかしらの音がするし、いい匂いも漂ってくる。どうやら大量に料理をしているらしいことがわかった。
「今日、なにかあるの?」
「うん! 推しの誕生日!」
 私の問いに答える純の声は、喜びに満ちて、明るい。
「推し……」
 好きなキャラクターやアイドルの誕生日や記念日を盛大に、またはささやかに祝う。オタクの習性ではあるが。そういえば、こいつもオタクではあるのだった、と合点がいく。
 見目麗しい売れっ子漫画家だが、一皮むけばただのオタクだ。
 純がどんな作品のどんなキャラクターを推しとしているのか、わずかに興味が湧くが訊ねるのはやめた。聞けば、オタクらしい早口で熱弁されるだろうが、ここ数年まともに漫画も読んでいない私にはわからない話だろうし。楽しそうに準備しているのを邪魔するのも気が引けた。
 この様子では、夕食はさぞ豪華なのだろうと思う。だが、手伝いもしない私が見えるところにいるというこの状況に申し訳無さと居た堪れなさを感じ、私は早々に自室に戻った。

 夕方が過ぎ。そろそろ夕食に呼ばれるだろう頃合いで。
 純の推しがどんなキャラクターなのかは知らないし、私にとってはただのいつもの夕食でしかないのだけれど、純にとっては誕生日を祝うというハレの日なのだから普段の部屋着では失礼かなと、外着に着替える。この服も一式、純に買ってもらったものだけれど、あまり外に出かけることがないので数えるほどしか着ていない。純の手入れが完璧すぎてまだ新品といっても通用しそうだ。
 着替え終わったちょうどその時。ノックの音がして、純が扉を開ける。
「矢晴〜、ご飯……、あれ!? 矢晴、出かけるの?」
 夕食に呼びに来た純が、私を見て驚きの声を上げる。こころなしかその声に落胆の色が見える気がした。
「出かけないよ」
 詳細に説明するのも気恥ずかしくて、それだけ言って部屋を出てリビングダイニングへと向かった。
 純は軽く追いつき追い越し、リビングダイニングへと繋がる扉を開けて私をエスコートする。いつもよりも照明の落とされたダイニング。テーブルの上には所狭しと純の力作だろう料理が並べられ、蝋燭様のゆらめく灯りのランプが飾られている。
 純が恭しく椅子を引き、促されるまま席につく。
 およそこれまでの人生で縁のなかった、豪華で、ロマンティックと形容するに足る雰囲気のある食卓の様子に圧倒されながら、純が席につくのを目で追った視界に“それ”を見つけ、ドキリと心臓が跳ねる。
 ごく淡い琥珀色……金色にも見える、細かな気泡が生まれて昇っていく液体の入った、シャンパングラス。本能的に、渇望に支配されてしまう。
 純が私にアルコールを出すはずがない、という理性と、眼前に存在するシャンパングラス、アルコールで酩酊する快感が呼び覚まされて渇望に支配される脳。混乱と恐怖に硬直し、制御できない指先が震える。額や首筋に、汗が伝うような、虫が這うような、鋭い爪でなぞられるような、そんな感触を幾筋も感じてしまう。
「矢晴、大丈夫だよ。ノンアルのカクテルだから、ね」
 グラスの向こうから、純の優しい声が届く。現実の実感を取り戻し、純の顔に焦点が定まれば、純の笑顔が見えた。安堵。そして冷え切った指先に血が戻る感覚がして、渇きに締め付けられたような喉が呼吸することを思い出した。
 動悸はまだおさまらないが、混乱と恐怖は立ち去った、と思う。
 落ち着いて、再度、食卓を見渡す。この座の主賓は誰なのか。純の用意した豪華な祝いの膳を捧げられるべき“推し”の姿は見当たらないようだ。
「矢晴」
 純が私を呼び、グラスを掲げる。私はそれに倣ってグラスを持つ。
「矢晴、誕生日おめでとう」
 純の放つ祝いの言葉は、まっすぐに私に向いていて。それを飲み込むまでしばし時間を要した。
――私の……? 誕生日……?
――純の推しは……? 私……?
「ふふ、自分の誕生日、忘れちゃってた?」
 この家に来てから、いやそれ以前から、日付の感覚はほとんどない。純が比較的曜日に沿ったスケジューリングをしているから、かろうじて曜日の感覚はあるけれど。
 それに、何故、純は私の誕生日なんかを把握しているのか。
「……うん。あ……ありがとう」
 すっかり忘れていた自身の誕生日。本当に今日なのかも自分自身ではわからなくて。実感のないまま、礼を言った。そして、私が、純の推し――?
――ああ、そうか。
 にわかに、合点がいく。
――そうだ、こいつは“古印葵”のファンだった。
 私のペンネームが古印葵なのだから、古印葵の誕生日は当然、私と同じなのだ。
 なにもかもの謎が解けた晴れやかな気分で、私は手に持ったグラスを口に運ぶ。細かに立つ泡が鼻先で弾ける。華やかなフルーツとスパイスのような香り、アルコールの刺激臭はない。喉を通る刺激は炭酸と、なにか。酸っぱさが心地よくて、罪悪感もない。
 ふんわりと、ぽかぽかと、体の内側から温かい気持ちが湧いてくる。
「これ、おいしいね」
「気に入った? シロップはたくさん作ってあるし、いろいろアレンジできるよ」
 まさか飲み物まで手作りだとは思っていなくて、びっくりしてしまう。
 その後は、いつもよりも楽しい食卓になったかと思う。純の用意した料理はどれもおいしかったし、一口サイズに盛り付けられて見た目も楽しく、ついつい食べすぎてしまったようにも思う。飲み物も何杯かおかわりした。純はその都度、アレンジを変えてきて、そのどれもがおいしくて、アルコールではないのに気分が上がる。
 そして純は終始ニコニコして嬉しそうだった。
 自身が祝われるための場とは思っていなかったが、着替えてきたのは正解だった。
 そんな見栄や体裁、恥や外聞なんてこと、純は頓着しないだろうが、礼を失したと自己嫌悪に陥る事態は回避できたのだから。

 晩餐を終え、ソファーへと移動する。
 久しぶりに満腹を超えて食べてしまった感じで、座っているのは苦しいが横になるのも……と思っていたら、純が背もたれを買って出たので甘えてしまう。
 推しの誕生日第二部は映画鑑賞、と純がはしゃいで準備した映画は、私の好みに合わせてか、雰囲気のいい恋愛映画。
 ロマンティックな空間とロマンティックな物語。背中から抱かれて、全体に人肌のぬくもりを感じながら。男女のカップルであれば、いい雰囲気に流されて、そのままベッド・インでもしてしまいそうな。
「好きだよ、矢晴」
――ああ、また……。
 こんなタイミングで、そんないい声で、そんな言葉を耳元で囁かれては、勘違いしてしまう。違うということを確かめたくなくて、いつも純の顔を見れないが、今は映画に視線を向けていればいい。
――でも……。今日は誕生日なのだから、もしかしたら……。
 浮上する考えをすぐさま打ち消す。そんなの、誕生日の魔法が解けてしまった朝が怖くなるだけ。今のままでいれば、今のままの関係が続くはずなのだから。私の気持ちと純の気持ちの違いに私が気づきさえしなければ、このままの心地よさが続くはずなのだから。
「……ん……」
 純の言葉には応えない。でも嫌悪はないことを示すために純の手を軽く握る。そうしたら、また純は私を好きだと言ってくれるから。それが本当には私自身に向けられたものでなくてもいいと思ってしまうほど、私は純を失いたくなかった。

 私の誕生日だという今日この日も、あと数時間で終わってしまう。純と一緒に過ごす日々が終わってしまうわけでもないのに、なんだか不安になってしまって落ち着かない。
「誕生日のプレゼントなんだけどね」
 純がケーキを切り分けながら話し出す。
「矢晴のしたいことを一緒にやろうかなと思ってて」
 純がケーキを載せた皿を私に差し出す。
「なにかやりたいことある? 何でもいいよ!」
――私のしたいことを……、一緒に……、何でも……。
 受け取ったケーキを食べながら純の言ったことを考える。純はきっとどんなに金のかかるようなことでも、どんなワガママでも叶えてくれるのだろうけど……。
 今したいことといったら、少しでも純と長く過ごすことくらいしかなくて。
「……今夜……、純の部屋で、純と一緒に寝たい……」
 言ってしまってすぐに後悔した。きっと、おかしなことを言う奴だと呆れられている。そう思うと、皿から視線を外せなくなった。
「そんなことでいいの?」
 純の顔を見れないまま、私は頷く。
「いいよ!」
 明るい声に導かれるように顔を上げて純の顔を見れば、いつもと同じ。私を無条件ですべて受け入れてくれるような、明るく優しい笑顔があった。










着手:2021/12/05
第一稿:2021/12/10

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