二次創作:ストレッチ

  上薗純は、およそ世間一般が想像する漫画家のイメージにそぐわない。恵まれた身長、体躯。世間一般の基準から見てもかなり整った顔立ち。それだけの器量があるのなら、漫画家でなくても――とでも言われてしまいそうな、美丈夫。
 とはいえ、上薗純が漫画家でなかった場合、この暮らしぶりはありえない。才能にあふれ、確かな技術と魅力を放つ画風を持ち、当然のように人気の作家となった今、世間一般の大多数が生涯で得るであろう対価を、毎年、稼ぎ出している。
 漫画が好きな少年が成長して漫画家となり、創り出した作品が大衆に求められる売れっ子となり、漫画家として大成功しているのだから、いまさら他業種をすすめるような大馬鹿者はいないだろう。
 これが、私のように、細々と生活ぎりぎりの綱渡りで漫画家でありたいと成功を夢見て夢のままに潰えたような状況であったなら、早々に他業種への転向が正解だったのだろうと思える。とはいえ、私には上薗純のような恵まれた風貌も社交性もないのだから、綱渡りの漫画家が綱渡りのフリーターになるのがせいぜいだ。
 そして、今の私はといえば、成功している売れっ子漫画家に寄生する元漫画家の無職の穀潰し。
――天は二物を与え、与えられた者は成功している。なんて不公平な世の中。
 私は、溌溂と汗を流す上薗純を横目に見ながら、純と自身の差を嘆き、世を呪う。
 そんな思考はあんな汗とともに流れ出ていってしまえばいいのに、と思うが、純のような健康的な汗を流したことなど一度もないことに思い至る。
――美形は汗まで美しい。
「なんでそんなに鍛えるの?」
 純の筋トレ部屋にある器具類の一通りの見学を終えて、背もたれのないソファーのような――おそらくこれもトレーニング用――平たい台に腰掛けて、純に聞いた。モテたいから? 筋肉が好き? 鍛え上げた自分が好き? 安直に、純の返答を予想しながら投げかけた質問。
「ずっと漫画が描きたいから!」
 純からは、私の予想の斜め上を行くような内容を即答された。漫画を描くことにそんな筋肉は不要だろう、と思う。
「漫画家って身体が丈夫であればいつまででも続けられる仕事だし」
――身体を壊せば続けられない仕事だし。
「机に向かって座ってする仕事ですぐ運動不足になるから、意識的に運動して筋力を維持してるだけで……」
――運動不足と不摂生、漫画家の職業病のようなもの。
「あ、あと、運動するとリフレッシュできるからストレス溜まらないよ」
 ストレスは酒に溺れて解消したつもりになっていた私には、純の健康的で健全で真っ当な言葉と行動の数々が無数の剣になって突き刺さる。
 夜更ししないのも漫画のため、筋トレも漫画のため、日々の食事のアウトソーシングも漫画のため。漫画を描くことが好きだから、漫画を描きたいから、漫画を描くために。上薗純が漫画家として成功したのは、ただの才能と強運じゃない。
――それに比べて私ときたら……
 自身の冒したおびただしい愚行が走馬灯のように去来する。私だって、漫画を描くことが好きだった――。
「……楽しそうで、いいね」
「矢晴も運動したい?」
 私の口から漏れた言葉は、正しく純に伝わってはいなかった。醜い感情を純に気づかれていないことに安堵する。けれど。なにが嬉しいのか、瞳を輝かせている純の勢いにたじろぐ。
「……あ、いや……」
「でも、いきなり筋トレとかすると体壊しちゃうから、まずはストレッチしてみよう」
「あんなの、私には無理だよ」
 純が家のそこかしこでストレッチをしている姿を思い出して、恐怖に引きつる。
「あはは。大丈夫、大丈夫。寝ながらできる簡単なのだから」
 そう言いながら、純は私の肩をゆっくりと押し、私は押されて倒れて台の上に背中をつける。
「こうして、全身をぐーっと伸ばして。力を入れてるつもりになればいいから」
 純が誘導するまま、これでいいのかと不安になるほど何をしているのかもわからぬまま、私は身体を伸ばす。
「ぐーってしたら、ふわ〜って感じで、力を抜いて。そうそう、そんな感じ」
 純は褒めてくれるが、結局のところこれでいいのか判断はつかない。
「これを何度か、寝る前にするとけっこう気持ちよく眠れるよ。あとは……」
 純の言うまま、純にされるがまま、寝転んだままの姿勢で腕を上げたり足を上げたり、身体をひねったり。ストレッチをしているというよりは、ストレッチの型を習っている程度でしかない。それなのに、私の身体は悲鳴をあげている。
「こんな感じで、ベッドで出来るから、毎日何回かずつでも無理しない程度にやってみるといいよ」
 そう言われながら身体を起こされ、座り直す。身体中が痛いような気がするのに、身体中が気持ちいいような、不思議な気分になっていた。
「……矢晴?」
「…んぇ?」
「大丈夫? 痛かった?」
 今、斜め後ろにいたはずの純が、正面に座って私を見上げている。少し曇った、心配そうな顔をして。
「ぇあ……、大丈夫。……なんだか、空っぽで……ぼんやりしてた……みたい」
「なら良かったぁ」
 私の受け答えに安心したような純のふんわりとした優しい笑顔が、うれしくなる。
 ほんの少しの、運動とも言えないようなストレッチの真似事。たったそれだけで、今まで動かすことのなかった身体の隅々まで活動を始めたような。たったそれだけで、ずいぶんと頭の中が軽くなったような。心の中にあたたかさが流れ込んでくるような。そんな気がする。
「あの……、続けてみたいから……、また……手伝って欲しい……」
「いいよ!」
 立ち上がった純を見上げて、純の時間を奪う厚かましい願いを口にしたのに、純は即座に受け入れて、私に満面の笑みを降り注ぐ。こんな私に。
 上薗純が、何故これほど私を受け入れてくれるのかは、正直なところ、理解できない。だけれど今は、こんな私を受け入れて、甘えさせてくれる純のそばにいられることに安心している。
――こんな日が、ずっと続いたらいい。ずっと……。








着手:2021/11/19
第一稿:2021/11/22


コメント