二次創作:矢晴のバイト(3)
自宅に戻ると、いつも落ち込む。
6畳一間と狭いキッチンの風呂なしアパート。できるだけ出版社に近く、かといって漫画家だと堂々と名乗れるほどの収入のない私が払えるだけの家賃の住まいを、と選んだ場所だが、その分、古くて狭くて、気が滅入る。
――望海可純の家と違いすぎて。
アシスタントとして雇われて通っている望海可純の家は、広くて、きれいで、居心地がいい。アシスタントの仕事用に用意された機材も、私が普段使っているものよりも何倍も性能が良く、快適に作業ができる。
泊まっていくと言えば、大喜びしてくれるうえ、あてがわれた客室のベッドはホテルのような快適さで質の高い睡眠がとれる。
漫画家としての自分はこんな貧相な部屋に暮らしているというのに、アシスタントとしての自分の環境は比べることも馬鹿らしいほどの高待遇で、より一層惨めな気分が湧いて出る。
そんな落差に落ち込みながらも、望海可純のアシスタントをやめようとは思わないのは、仕事として申し分ない条件だから。そして……、望海可純が、上薗純が、古印葵のファンだと言って憚らないからだ。
純が古印葵のファンだと言い、私を慕ってくれている。それだけで、私は漫画家なのだと実感できる。私の生み出した作品を、純は愛してくれている。古印葵のファンは幻想でなく現実に居て、古印葵の作品を楽しみにしてくれるのだからと、背中を押される。
――それでも……
鞄から取り出したネームの束を、パソコンデスクの隣の棚に積み上げる。
――また、今回もダメだった。
受賞をきっかけに誘われたはずなのに、B誌ではまだ一作も掲載に至っていない。こんなことならA誌を離れなければよかったと、何度悔やんだことだろう。だが、ここまで来てはもう引き返すことなど出来ない。何の成果もあげず、ここまで費やした時間を棒に振ることなど……、出来やしない。
棚に積み上げているのはB誌の編集に選ばれることのなかったネームやプロットの数々。新たに積み上げたなかには、純が「完成原稿でも読みたい」と言ったネームも含まれる。
――こんなにも……
作品として生まれ出ることのできなかったもの……。私の感情、記憶、心から生み出した物語たち。私の世界。私の漫画。私の――。
編集の要望を色濃く取り入れたネームやプロットもある。それらには未練はないけれど、いくつかのネームやプロットは、私の描きたいものを、古印葵の作品として発表したいと自信を持って持ち込んだものだ。選ばれはしなかったけれど――。
(これなんかは、純さんが喜びそうだな……)
『編集部に採用されなくても、描いちゃっていいじゃないですかぁ』
(これも……、こっちも……。たぶん純さんは気に入ってくれる……)
『編集が何を言っても、描きたいものは描きましょうよー。掲載する漫画以外描いちゃいけないなんてことないですし!』
「……、描きたい、なぁ……」
耳に聞こえた本音の声に触発されてか、涙が溢れ出すのを頬に感じる。両目から溢れて頬を濡らす涙はとめどなく流れ続けた。
「はぁーー……」
――……泣いた。
体中の水分がすべて放出されたかと思うほど、涙と鼻水が止まらなかった。箱に半分ほど残っていたティッシュは使い切り、それでも足りなくて使ったタオルは、乾いているところを探すのが難しいほど、涙と鼻水でぐちょぐちょだ。
――漫画を、描きたい。
後悔も落ち込みもストレスも、負の感情のすべてが大量の涙で洗い流されたようで、心のなかに残るものはシンプルだった。漫画家として承認と対価を得たいでもなく、雑誌に漫画を掲載したいでもなく、漫画が描きたい。
――大好きな漫画を、好きなように。
多くの人に読まれなくてもいい。自分自身のために、描けばいい。
B誌での掲載を諦めるわけじゃない。これからも掲載を目指していく。けれど、ボツになったからといってお蔵入りにしてしまうこともしない。描きたいものは描いていこう。アシスタントの仕事と並行してでは、どこまでやれるかはわからないが、〆切のない原稿なのだから、どれだけ時間がかかってもいいじゃないか。
なんだか久しぶりにスッキリとした晴れ晴れとした気分で、そう、決めた。
――自分自身のために。そして、たった一人の読者のために。
着手:2021/09/27
第一稿:2021/09/29
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