二次創作:矢晴のバイト(5)

  さすがに、甘えすぎている。と反省しなければならないのだが、背に腹はかえられない。頼めば快諾されることがわかっているから、なおさら申し訳ない気持ちにはなるが……。
「純さん、この原稿が上がるまで、こちらに泊まらせてもらいたいんですけど、いいですか?」
「いいですよ!」
 上薗純は明るい笑顔で即答する。あまりにも想像通りで、気が咎める。
「あ、でも、大丈夫ですか? いつも引き留めて泊まって頂いてる立場で言うのもアレですけど、家に帰らなくて」
「大丈夫……というか、今、電気が止められてて、家じゃ作業できないんですよね……」
 自嘲気味に作った笑顔になっているのか、頬が引きつる感じが不快に思う。貧乏を露呈するのも恥ずかしいが、純はそれを嘲るタイプではないことはわかってきていた。
「えっ!? お給料足りませんか!?」
 週の半分のアシスタント作業の報酬は、毎日フルタイムで働くことと比較すれば確かに少ないのだけれど、まったく生活できないほどでもない。それにアシスタント作業のある期間以外にも純の家に泊まってしまって食事も振る舞われるのだから、生活費の面で考えれば、自分の家での光熱費や食費はかなり浮いてしまっていて、申し訳ない気持ちにもなる。
 給料が足りないわけではなくて、ときちんと説明しなくては、純のこの勢いでは実態に見合わない賃上げをしかねないなと思う。
「いえいえ、ただのうっかりで払い忘れただけなので。ちょうどこっちに作業に来るところだったのでまあいいかと後回しにしてしまって……」
 貧乏ついでにしだらなさまで露呈してしまった。
「それなら…いいんですけど」
 純にしては珍しく歯切れの悪い感じで、その後しばらくお互いがペンを走らせる音とキーボードを操作する音だけが部屋に流れた。気まずい沈黙に思えて、落ち着かない気分にもなる。
「……あのー」
 沈黙を破ったのは純。
「物は相談なんですけど……、矢晴さん、今通いで来てもらってますけど、うちに住み込みにするのどうですか?」
「え……?」
「こないだ、税理士さんに帳簿見てもらった時に『住み込みにしたら、いろいろ経費になってお得ですよ』って言われたんですよ」
 年収の単位が億になるほど稼ぐ売れっ子漫画家だからこその節税対策ということか。
「私が引き留めるから、月の半分以上はうちに泊まってくださってるじゃないですか。その分の家賃とか、無駄にさせちゃってると気づきまして」
 たしかに、まともに住めていない現状での家賃分の出費は、懐を圧迫するだけではあるが、住所不定にならないという保険と思ってはいた。たとえ自身の住まいであるはずのアパートで気が滅入るとしても、“居場所”の有無は生死をも左右する。私の実績や収入具合から考えれば、今の住まいを解約してしまったら、新しく賃貸物件の契約を結ぶのは不可能だろう。
「いや……でも、そうなるとこちらを辞めた時に住むところがなくなってしまうので……」
 やんわりと断ったつもりだったが、上薗純には通用しない。
「その時は、こちらで責任持って次の物件手配します!」
「住み込みにしてくれたら、通うための時間も原稿に使えたりするじゃないですか。交通費もいらなくなるし。あ、もちろん、うちの機材はこれまで通り好きに使ってくださいね。出版社へもうちからのが近いって以前言われてましたし、なんなら車出しますよ! 部屋は今使っていただいてる客間そのまま使っていただいてかまいませんし、2階にも部屋空いてますよ!」
 純のなかで夢が広がっているのか、次々と早口で捲したてていく。
「私、大きな家に好きな人集めて暮らすのが夢なんですけど、古印先生がうちに住んでくれたら、すっごく! 嬉しいです!」
 金銭的にも快適な住居的にも、私にはメリットだらけの話。純にとっても、なにかしらのメリットがあるらしい話。だが、どこかに落とし穴があるのではないかと、不安が襲ってくる。同じ家に住んでしまって“上薗純が古印葵に幻滅する”ような事態が起こってしまった場合、私は仕事も住居もファンも失うことになる。
「いや……でも……、そんな急に決められませんし……。私がここに住むことで逆に純さんの出費が増えるだけで実は損なのかもしれませんし……」
「えー……、そうですかぁ?」
 水を差されて消沈した雰囲気。盛り上がりすぎた上薗純の気勢をそぐことが出来たようで内心ホッとする。が。
「それじゃあ、試算とか契約内容とか用意してもらうんで、それ見てから決めてください!」
 純の本気に火をつけてしまったらしい。完全に外堀を埋められそうだ。

 望海可純のアシスタント作業の期間を含めて、1週間はかかるだろうかと思っていた私の原稿が想定していたよりも早く出来上がったのは、手伝ってくれた上薗純の作業の速さゆえだろうか。
 どこかに掲載されるでもない私の漫画の完成を純は大いに喜んでくれて、祝ってくれた。
 そして純は今、プリントアウトした私の漫画をじっくりと読んでいる。
 そして私は今、純から渡された試算と契約書の草案を読んでいる。
 どれだけ純が急かしたのだろうかと思うが、あれから1週間も経っていないこの短期間に必要な書類を用意してしまえるほどの有能な税理士だか弁護士だかを雇えているのは、売れっ子ゆえの金の力か。
 それにしても。
 こんな数字を他人に、一介のアシスタントに見せてもいいのか? と驚くような数字が並んでいる。純の稼ぎからしたら、私を住み込ませることで生じる出費など微々たるものだが、たしかに『いろいろ経費にできて得』らしいことがわかる。そしてまた、私の収支の概算まで用意されていて、家賃光熱費だけをとっても、今よりかなり負担が少なくなるからずいぶんと楽になる、ようだ。
 雇用契約についても、先日純が言ったとおりに契約終了時、つまり辞めた時には上薗純が転居先を手配する等が盛り込まれている。
――正直言って、メリットしかない。
 いやいや、こんなにもメリットがあるだけのうまい話があるはずがない……。
 きっとどこかに絶対なにか落とし穴があるはずだ、と書類から目を逸らすと、熱心に私の漫画を読んでいる純の姿が目に入った。
 これで何周目なのだろうか。原稿の手伝いもしていたのだからすでに何度も読んでいるはずだろうに、飽きる気配もない。こんなにも私の漫画を夢中で読んでくれて慕ってくれる貴重な読者。目に見える唯一の私の理解者――。
――私にとっての、デメリット……
 それは、私がこの家に住むことによって上薗純が福田矢晴の本性を知り、古印葵に幻滅すること……。その結果として、私が上薗純という存在を失うこと……。
 いつ起こるのか、起こらないのかすらわからないような途方も無い憂い。そして、目の前の上薗純の様子は、そんな日が来るかもしれないなんて妄想が霧散するほど純粋で、私の世界に陶酔している。
 もっとたくさん、読ませてやりたい。もっとたくさん、漫画が描きたい。上薗純に、私の世界のすべてを見せたい――。
「……純さん」
 漫画の世界に没頭しているところに声をかけるのは躊躇われたが、決意が揺らがないうちにと声を出す。純は、私の呼びかけに反応して紙束から視線を上げて私を見つめたから、視線が合う。
「……この話、進めてください」
 通いのアシスタントから、住み込みのアシスタントへ。上薗純の家に住み、上薗純と暮らす。
「え……、わ……、うわぁ、やったー!」
 漫画の世界から現実の世界に焦点が合わされた純の瞳は陶酔から驚きと喜びに輝きを変えた。純は紙束を撒き散らさんばかりの勢いで飛び上がって喜んだ。












着手:2022/03/27
第一稿:2022/04/02


コメント