二次創作:矢晴のバイト(7)
上薗純の家に住み込むことになって、一人暮らしのときに比べて生活がかなり向上した。仕事に通うための移動にかかる時間がなくなり、その分も制作に充てられる。
食生活は上薗純と食事するため、三食定時でバランスのとれた食事が提供される。一人暮らしのときには自炊はほとんどせずコンビニ弁当などで済ませていたが、食料の調達の時間も何を食べるか考えることもなくなるのはこんなに時間が増えるのかと驚いた。しかも、準備も後片付けも家主である上薗純がテキパキとこなしてしまうから、上げ膳据え膳のようなもの。
申し訳ないな、と思うものの、純のように効率よくこなせるとも思えないから、甘えてしまう。
基本的には週に3日、朝から夕方、たまに夜までアシスタントとして純の仕事場に入る。週に1日はB誌との打ち合わせ。残りの時間は自身の漫画の制作に充てたり、休んだり。
純の生活習慣に倣う形で、徹夜作業をしなくなったら効率が上がったし、無理や無茶をしないから、気持ちにも余裕がある。
長時間の拘束を懸念してアシスタントをバイト候補から外そうとしていた数ヶ月前の自身を説教したい気持ちに駆られるが、他の漫画家のアシスタントではここまでの高待遇はあり得なかっただろう。と思うと、望海可純に引き合わせてくれた元担当に足を向けて寝られないなと思う。
とはいえ、自身の漫画が雑誌掲載に至らない、多くのネタ出しをしても採用に至らない現状は、漫画家として、かなり苦しい。
望海可純のアシスタントの仕事で収入を得て、望海可純の家に住むことで生活環境が向上したとしても、私自身が漫画家として成功したわけでもなく、安定したわけでもなく。むしろ、大成功している漫画家を間近で見る分、余計に苦しさが増すような気さえする。
古印葵の大ファンだと言う純が私の漫画を絶賛すればするほど、採用されない現実が私を打ちのめす。
そして今日もまた、採用に至らなかった実りのない打ち合わせから、重い足取りで上薗純の家に帰り着く。期待に満ちた目で結果を聞かれるかもしれないと思うと、余計に気が重くなる。ダメだったと告げるしかなくて、曇った顔をさせることになるのも、気を使われて明るく振る舞われるのも、嫌だなと思う。
帰宅を知らせるように呼び鈴を鳴らし、自分で鍵を開けて家に入る。と、二階から慌ただしく上薗純が駆け下りてきた。
「やはるっ、矢晴っ! 助けて!」
ただいまを言う間もなく、おかえりと迎えられるわけでもなく、切羽詰まったような表情の、これまで見たことがないほど慌てた様子の、純が叫んだ。
上薗純の話を要約すると、『1週間前に担当に送った原稿のデータが、今日、壊れていることがわかった』『再送しようと確認したら、自分のデータも壊れている』『〆切りは3日後』『スピンオフの読み切り32ページを今日を含めて3日間で描き直さないといけない』ということらしい。
1週間も前に送った原稿を確認せずに放置していた担当編集者の職務怠慢に怒りにも似た感情が煮えたぎる。送ったデータが壊れているにしても、送ったその日に確認されていればまだ対処のしようもあっただろうに。描き直しが発生するにしても10日間と3日間では雲泥の差だ。
そして原稿が掲載されなければ、原稿を落とした、描かなかったとされるのは、望海可純本人だ。描いた原稿のデータが壊れていたとか担当の確認が遅かったとか、そんなことは読者には関係がない。予告され、楽しみにしていた漫画が載っていないなんて、どれだけ―――。
「他のアシの担当データは……? 送ってもらったら……」
「漏洩対策で、私が担当に納品してから3日経ったらデータ消してもらってるから、多分残ってない……」
そういえば、そうだった、ような気がする。私は純の仕事部屋で一緒に仕事をしているから作業データを消す、という作業はしたことはないが、たしかアシスタントの契約書にそんな項目があった。
共有サーバのデータも原稿が出来上がった後、漏洩目的でダウンロードされたりしないようにと消してしまう。純の持っている完成原稿のデータもバックアップも壊れているらしいが、もしかしたら、私を含めアシの誰かの作ったデータが致命的に壊れていた可能性も考えられる。だが、各個のデータもない今では確かめようもないし、犯人探しをしたところで意味もない。残っているデータをかき集めて結合したとしても、壊れないという保証もない。
とすれば、やはり締切までの3日間で描き直すしかないのだ。
ネーム兼下描きのデータはかろうじて別ファイルで残っていたが、それを使ってまたデータが壊れる可能性を考えて使わないことになる。作業途中に紙面での見え方の確認用に出力してあった全ページをスキャンして取り込んで、それを新たに下描きにすることにした。半分以上は仕上げられたページになるから、その部分は作業指示を新たに出す必要もない。その分、時間短縮になる。
スキャンするのはアシスタントの私の仕事。純はデータを確認し、下描きとして利用できるようソフトに取り込んでいく。そして並行してペン入れ作業を開始していた。
「予定外の作業になるけど、他に入れそうな人はいた?」
3日で32ページを、描き直す。純のペン入れのスピードならば、明日には全ページ仕上げ作業に入れる、ハズ。純自身でも仕上げ作業を行うとしても、やはりあと1人か2人は人手が欲しい。私と純の、ふたりだけでは間に合わないとしか思えない。もともと、複数人が作業に入って数週間かけて描かれたものだ。
「連絡はしてみたけど、うちの連載分の作業が終わったとこだから、みんな他の予定とかよその作業に入ってるっぽいんだよね〜」
純は作業の手を止めずに答える。手元の作業に集中しているようで、いささか返答の仕方がぞんざいに聞こえる。雑に扱われているとは思わないが、集中している様子と遠慮がなくなってきた感じは、好ましいと思う。
スキャンが終了し、純も全てのページを下描きとしてソフトに取り込み終わる。ファイルを共有し、純がペン入れをすすめる傍ら、私は枠線を引き、人物の入らないコマから作業を始めた。
「純、食事は?」
私が夕方に帰ってきてからすぐにこの騒動なのだから、当然食べていないだろうと思いながら、たずねる。集中力も切れてきたし、そこまで多くの食事を必要としない体質の私でも空腹を感じるのだから、純は相当じゃないかと思う。
「お腹すいた……、けど……」
「私が準備してくるよ。持ってくるから、ペン入れしてて」
食事の準備も気分転換になるし休憩にもなる。食事のために階下に降りて休憩してもいいかもしれない。が、今、望海可純の作業時間を奪うわけにはいかない。食事の支度なんて私でもできることだが、望海可純の漫画は望海可純にしか生み出せないのだから。
ペン入れに集中している純を仕事部屋に残し、階下のキッチンへと向かった。
作業しながら食べれるもの……と考えると、おにぎりやサンドイッチが思い浮かぶが、手が汚れてしまうとキーボードやマウスの操作に支障が出る。結局、手を拭くために作業が中断することになっては意味がないし、食事は食事として集中したほうが作業効率は上がる気がする。
冷凍庫の作り置きと冷蔵庫の冷蔵おかずをざっと眺めて、考える。おかずは選んでレンチンするだけ。ご飯は炊飯器に炊かれている。手軽に、それなりのボリュームで、と考えると、ワンプレートか丼か。
さっさと食べれて満足するのは丼か。とすれば――。選んだおかずをレンジにかけている間に食器を用意し、トレーを取り出す。自身が食事を用意することは滅多に無いとはいえ、さすがにすべて純に任せきりでは申し訳ないので、ある程度は把握している。ここに来て、やっと役に立っている、と思えたのは、いささか遅まきにすぎるとは思えるが。
丼にそれぞれご飯を盛り、温まったおかずを乗せる。そしてレンジでもうひと仕事。
トレーの上に出来上がった食事と、箸とスプーンとおしぼりと。食事用の飲み物としてお茶のボトルと、ふたり分のカップ。純がいつも仕事中に飲んでる紙パックの飲み物と。とりあえず必要になりそうなものを載せたら、ちょっと重かった。
先生の飲み物まで把握している、というのは、アシスタントが板についてきたものだ、と誇らしいやら情けないやら。
運ぶのに支障はなかったが、両手がふさがり、仕事場のドアを開けられない。ドアを開けたまま出ればよかったな、と後悔するが、どうせ純には食事休憩に入ってもらうのだから開けてもらおう、と行儀は悪いが、足でドアをノックして声をかける。ほどなくして、ドアが開いた。
「ふわぁ、温玉まで!」
いつもよりも長時間、いつもよりも更に集中して作業していた純は、過度の空腹も手伝ってか、かなり疲れた表情でやつれても見える。そして、私が用意した丼を手に嬉しそうな声を上げた。
純が手配している家事代行による作り置きのおかずと、毎月の定期便で届くおかずを、純の炊いたご飯と一緒に丼に盛っただけ。それだけじゃ純には物足りないかなと、レンジで作れる温玉を載せたけれど、調理と言うほどの調理じゃない。
自分の手で作った料理ではないけれど、目の前で喜んで食べてくれてるのを見るのは、それはそれで嬉しい。純が嬉々として私との食事の準備をするのは、こういう気持ちがあるからだろうか……? と頭の片隅で思ったが、さすがに自意識過剰だと振り払った。
「ごちそうさまでした! おいしかったー!」
食事を終えた純が言う。空腹が解消されて、顔つきも明るくなる。満腹にまではいかない量だろうが、満足はしてくれたようだ。
食休みをする間もなく、純はペンを取りモニターに向かう。純の作業は私の考えていたよりもだいぶ進んでいるようだった。
時計の短針がテッペンを過ぎて傾く。いつもはこんな時間まで作業をしていない純の手が遅くなる。時々、思い出したように動き出すような気配があるから、相当眠いんじゃないかと思う。
私のほうも、ペンを動かすのが辛くなってきて、素材の整理とピックアップをしていたところだ。この読み切り用に描かれた背景も特殊な効果も、素材として残してあった。新たに描く必要がある背景はそんなにない。これこそがデジタルの強みだろう。アナログであったらこうはいかない。とはいえ、アナログであったらデータが壊れる、なんてこともないのだけど。
背景からなにから一から描き直しだったら、絶対に間に合わないだろうと思っていた。だが、望海可純の効率的な仕事ぶりやこれまでの蓄積から、かなり希望が見えてきたように思う。間に合うかもしれない。
「……うぅ……、眠い」
いよいよ限界を迎えたようで、純の口から弱々しく漏れる声が珍しくて微笑ましい。
「じゃあ、今日はここで切り上げて、寝ようか」
「……でも、大丈夫かな……」
間に合わなかったら……、そんな不安の声が聞こえる。普段から原稿を落とさないために、かなり余裕を持ったスケジュールで健康にも気遣っている純は、こんな状況は初体験なのだろう。3日で32ページを仕上げる、なんて私も初めてだし、不眠不休でも仕上がるかどうか、不安になる。
「今無理をして、明日からの効率が落ちたら意味がないだろ? 夜更かしや徹夜は非効率だって教えてくれたのは純だよ」
「……うん。じゃあ、寝る」
純はそう答えて、ファイルの保存を確認すると、立ち上がった。
「矢晴、おやすみ」
「おやすみ、純」
寝室へと向かう純を見送り、手元の作業を終わらせる。純にああ言った手前、自分もこれ以上の夜更かしをするわけにもいかない。仕事場の電気を消して、階下の自室へと向かった。
「これで終わり?」
「終わり」
「出来た?」
「出来た」
ふたりとも、信じられない気持ちで確認し合う。
純のペン入れは2日目の午前中には終わり、昼食後からは仕上げ作業に移行した。
純がキャラクターのトーンワークをしている間に、私は各コマに必要な背景をはめ込んでいく。素材として残っていなかった細かな背景を私が描いている間に、純が各コマの背景にトーンやベタを施して加筆して、世界観を立ち上げていく。
いつもなら夕方には仕事を終えて自由時間になるけれど、この非常事態に、夕食後も仕事場に入り、いつもの倍の作業時間を使っていた。
それでもちゃんと食事をし、きちんと睡眠をとり、適度に休憩もした。1日の作業時間が長いことで疲れはしたが、効率を落とすような無茶はしなかった。
3日目は明日が〆切り日ということもあり、多少なり焦りが生じる。この事態は担当の不手際もあるのだから、交渉すれば〆切りは延びそうな気はする。が、遅らせれば後の作業にしわ寄せが行き、ドミノ式に迷惑の連鎖を引き起こしてしまうのは純としても不本意なんだろうと思う。
全体の進捗を確認し、完成の目処が付いたのは午後。不備があった場合の修正時間も加味して、朝一には確認されるようにと今日ばかりは少し無理をして作業は深夜遅くまで。
「やったー! できたーーー!!」
完成の喜びと深夜テンションで、ふたりしてはしゃいでしまう。一度は完成させ記憶に新しいとはいえ、時間のかかる背景は素材として残っていたからとはいえ、3日間で32ページの原稿が出来上がるなんて、奇跡に近い。
原稿データを確認し、念の為に、純の複合機でできる最大限の高画質で出力しておく。場合によってはアナログ原稿として担当に渡すことになる。
純もデータを確認し、複数箇所にバックアップをとり、壊れていないことを確認して、担当へと送信する。後は担当からの確認の連絡が来るまでしばしの休みとなる。
「はぁぁ〜〜〜」
納品を済ませ、一気に気が抜けたのか、純の口から奇声のような盛大な溜息が漏れ、床にへたりこむ。
「ほんとに、良かった〜、間に合った〜」
「うん。ほんとに、良かった」
そのまま床に溶けてしまいそうなほど脱力していた純が居住まいを正す。
「古印先生がいてくれて、本当に助かりました! ありがとうございます!」
深々と頭を下げられて、ぎょっとする。望海可純に雇われているアシスタントとして当然の仕事をしただけで、そこまでの感謝をされるようなことではない。たしかに時間外の、予定外の作業ではあるのだけれど。
「いえいえ、そんな。頭を上げてくださいよ」
「いえいえ、本当に、古印先生がいなかったら絶対落としてましたし」
おかしな具合で互いに正座して、コメツキバッタのようになる。どうしたら純のこの盛大な感謝を切り上げられるのかわからない。
「ちゃんと時間外の手当もつけときますので」
「はい。お願いします」
ビジネスライクな着地点で、お互い顔を見合わせて笑ってしまう。
結局、純の今回の読み切りの原稿料は全部アシスタント代に消えてしまうことだろう。それどころか、原稿料だけじゃ足りなくて持ち出しになるはずだ。だが、イレギュラーな作業に対応した、正当な報酬を受け取らなければ、私自身がここに居辛くなってしまう。
こんな事態は今後起こりそうにないけれど、私にばかりメリットがあるように感じて据わりが悪い心持ちの住み込み契約が、やっと双方にメリットがある対等な契約だと思えるようになった。
「おやすみ、矢晴」
「おやすみ、純」
仕事部屋の前であいさつをして、純は寝室に、私は階下の自室へと向かう。いつもよりも遅い時間で、眠気はピークだ。間に合わないかもしれない、なんて憂いも消えて、今夜はよく眠れそうだ。
着手:2022/06/14
第一稿:2022/08/16
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