二次創作:雨

  地面に描かれる点描が毎秒増え広がる。不規則に、ランダムに。刻一刻と緻密になって、やがて塗りつぶされる。見上げれば、重力に惹かれて落ちる水滴の軌跡が線になる。痛みさえも伴う冷たい雨粒は容赦なく体を撃ち、全身を濡らした。
――このまま、死んでしまえたらいいのに……。
 いつだって、そう思う。死ねば楽になれる。生きなくて済む。それなのに、この体は生き続けるし、純は私を生かすために世話を焼く。
 冷たい雨はどんどん体温を奪っていく。体温とともに思考力も失われていく。雨音と耳鳴りが頭のなかで響き合って不協和音を奏でる。体の芯に残った温度を守ろうとでもするかのように、本能的に膝を抱えた。
――死にたい……。
 表に出せない歪な感情を昇華することもできず、燻る想いがじわじわと身を焦がす。その度に、逃げ出した。どこに行くことも出来ないのに。そして、その度に――。
 不意に、自身の周囲だけバリアを張られたかのように降り注ぐ雨が消えた。
「矢晴。帰ろう」
 朦朧とする意識で重たい頭を持ち上げて見上げれば、傘を差しかける純がいた。

 冷たい水を含んでずっしりと重い服。湯気の満ちた浴室で、服の上からシャワーを浴びせられる。
――あたたかい、雨。
 体を包んでいた水が湯に入れ替わっていく。こんなふうに、自分の心の中も、頭の中も、入れ替わったらいいのに。
 あたたかい雨に打たれたまま、重しのようにのしかかる服が一枚一枚剥ぎ取られていく。骨と皮ばかりの貧相な体に直接あたるシャワーは、体の芯まではあたためてはくれなかった。
「湯船につかろう」
 軽く背中を押されて促される。押されたことでバランスを崩したように一歩は出たが、次の一歩は出なかった。純はなにも言わず、腰を抱き、手を引いて、私を湯の中へと導いた。
 純に抱えられ大きすぎるバスタブの湯につかる。雨に打たれて凍えて強張った体から、湯に溶け出していくかのように力が抜けていくのがわかる。
「熱くない?」
「……ん」
 目を閉じたまま、頭を純の肩に預ける。体は弛緩して、自身を支えることもできない。純が支えていなければ、そのまま大きすぎるバスタブの底に沈んでしまうことだろう。
 以前に一度、沈んでいるのを純に引き上げられてからは、純と一緒に風呂に入ることになってしまった。
 純の家に来てから、私は今まで出来ていたことも出来なくなった。自分の面倒を見ることさえ出来ない。生活のなにもかもを純にしてもらって、純の金で生かされている。純の負担になってまで生きていたいと思えないのに、このまま純のそばにいたいと思ってしまう浅ましさに死んでしまいたいと思う。
「……探した?」
「少し」
「……仕事は?」
「大丈夫」
 拙い問いかけに答える耳元で響く穏やかで優しい声。
 こいつは、いつだって私に優しい。
――いつまで?
――どれだけ?
 いつか、その優しさが枯渇するかもしれない。その時が来るのが、怖い。怖くて不安で、今すぐにでもその時が来ればいいと願ってしまう。

 ふかふかの柔らかいバスタオルで全身を拭き上げられて、清潔な部屋着を着せられる。人形みたいに、すべてを純任せに。自力で動く気力もなくてそのまま眠ってしまいたかったが、純から離れたくなかった。
 自室に運ばれ、ベッドに横たえられて、あたたかい布団に包まれる。窓の向こうはまだ雨が降っていて、打ちつける雨が窓ガラスを伝っていく。水の流れを眺めていたら、自分が水槽の中に飼われているような気がしてきた。
 静かな部屋のなかに外の雨音が鈍く聞こえる。
「あったかいもの持ってくるね」
――ここにいて。
 言いたい言葉が喉を通り抜けてくれなくて、扉から出ていく純を見送った。
――戻ってくるはず、きっと、すぐに。
 その、ほんの数分。たった数分が永遠のように感じられて、鈍く聞こえていた雨音が責め立てるように大きく鋭く頭の中で響く。純に寄生し生き存える浅ましい私の姿を嘲笑う。
 今すぐここから消えて無くなりたい。私の存在はこの世界に不要なのだから。涙があふれて、止まらなくなった。あふれる涙にこの身が溶け出て消えてしまえばいいと思う。
「矢晴ぅ、おまたせ〜」
 純の陽気な声が遠く聞こえる。純の気配がベッドを回り込んでくる。サイドチェストになにかを置く音がして、ベッドの片側がわずかに沈んだ。
「矢晴。大丈夫だよ」
 涙で滲む視界に、純の顔がぼんやりと映り込む。髪を撫でられている感触。純の大きな手のひらから伝わる体温はあたたかい。
「……うぅ……」
 涙は止まらない。思考は空転し、言葉にならず、呻くことしかできない。
「寒い? いいよ、一緒に寝よう」
 布団がめくられ、一瞬の肌寒さ。私には身に余るサイズのベッドだが、純の大きな体には窮屈だろうに。
 枕の下から純の腕が私の背中に回された。純の力強い腕を枕に、純の腕に抱かれ、純の胸に涙に濡れた頬が触れる。
 柔らかい布団と純の体温にすっぽりと包まれる心地よさと、居心地の悪さ。相反する感情を処理することは不可能で。私を責め立てる耳鳴りと雨音の隙間から、純の鼓動が聞こえる。
 規則正しく、少し速い、純の鼓動。
 穏やかで、やさしくて、あたたかくて、包み込まれる。
――なんで……。どうして……。お前は……。私を……。
「……大好きだよ、矢晴」
 雨音が遠ざかり、純の鼓動と声が耳にやわらかく響く。
――お前は……。いつだって……。私にやさしすぎて……。
「……嫌いだ……」
「うん。私も矢晴が好きだよ」
 縋り付くように純の胸に顔をうめる私を抱きしめる腕の力が強くなる。
「…………嫌い、だ……」
「好きだよ、矢晴」
――お前は……。なぜ、私なんかを……。
 私を責め立てる音の洪水は波が引くように薄れていく。かわりに、穏やかな声と鼓動の音が頭と心を優しく満たす。
 純の言葉が真実かどうかはわからない。純の言葉が、私の気持ちと同じ意味を持つのかどうかはわからない。
「私は矢晴が好きだから……」
――だから……?

 だからのその先を追求し始めた思考がおぼろげになる。音が聞こえていた意識が広がって溶ける。心地よい睡魔がすべてを覆っていく。
 純の鼓動と私の鼓動と、純の体温と私の体温と、溶け合ってひとつになって。
 幸せを感じたまま、私は眠りに落ちた。










着手:2021/10/23
第一稿:2021/11/01

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