二次創作:眼鏡

 矢晴が眼鏡をかけていた、なんて知らなかったから聞いたときには驚いた。きっと素敵なんだろうなと想像する。
 どんなデザインの眼鏡をかけていたのかも気になったけれど、矢晴の荷物を探しても結局、眼鏡は出てこなかった。眼鏡ケースだけ出てきて、ぬか喜びはした。
 眼鏡を作ったのは昔、というから数年は経っているのだろう。その間に視力も変わっているだろうから新しく作ることにして、浮かない顔の矢晴を連れ出してドライブ。
 視力だけを眼鏡屋で測定するのもいいだろうけれど、見えにくい原因がただの近眼などではない可能性も考えて、眼科で一通り検査してもらう。
 私の安心のための病院通いだけれど、検査されるのは矢晴で、あれやこれやと検査の機械にかけられたりして、終わったときにはいつも、どっと疲れた顔をしている。

 病院での検査の結果は問題なし。眼鏡用の処方箋を出してもらって、そのまま眼鏡屋へと向かった。
「失くしたりとか、眼鏡を探すための眼鏡とかって考えると、やっぱり予備はあったほうがいいよね」
 助手席の矢晴に声をかける。運転中だから矢晴の顔を見るわけにはいかないけど、聞こえたうめき声は不服を示す。私は眼鏡を作ったことはないからいくらするのかは知らないけれど、新しく眼鏡を買うということにすら渋々といった感じがあったのだから、予備まで買って余計にお金がかかる、というところが懸念事項なのだろう。
 近隣の眼鏡屋がいくつか表示されているナビ画面を頼りに車を走らせる。
 最初に見えた店は、少し高級そうな個人店な感じ。雰囲気は良さそうに思うけれど駐車場がわかりにくくてスルーした。
 次に見えた店は、激安を謳う赤い幟が目立つ大型店。駐車場も広いし、値段を気にする矢晴にも問題ないだろうと入店のためにハンドルを切った。

 店内に入れば、この世の中にこんなにたくさんの眼鏡があるのかと驚くくらい、至るところに眼鏡が並べられている。専門店なのだから当然なんだろうけど。矢晴にはどんな眼鏡が似合うだろうかと整然と並べられた眼鏡たちを眺めるうち、どんどん気分が高揚していく。
「ねえねえ矢晴、前はどんなのかけてたの?」
 色々な形、様々な色合いの眼鏡たちを眺めながら矢晴に問う。
「どんなって……、まあ、ふつうの……こんな感じの」
 矢晴が指差す先には、オーソドックスな黒縁の眼鏡。少し細めの、長方形で、かっちりした印象は知的な矢晴にぴったりだと思う。
「そうなんだ! 黒縁が好きなの?」
「……いや、別に……無難なところで選んだだけで」
「そっかぁ。他に気になるのある? たくさんあるから迷っちゃうね〜」
 矢晴が以前にかけていたというタイプの眼鏡だけでも、わずかな角度の違いやら色味の違いやら、ずらっと並んでいて、どれがいいやら迷ってしまう。どれもこれも矢晴に似合いそう。
「…………」
 私の問いかけに矢晴は沈黙で返す。私でも圧倒されてる物量から気に入るものを選びだすなんて、今の矢晴にはちょっと辛いのかもしれない。
「じゃあ、ひとつは前のと同じ感じにしよう。もうひとつは私に選ばせて」
 できるだけ矢晴の負担にならないようにと提案する。矢晴は頷いて承諾を示した。

「それでは、レンズの方ですが……」
 選んだフレームと処方箋を持ってカウンターに並んで座り、店員にカタログを見せられる。フレームだけでもすごい量があるのに、レンズもこんなカタログにまとめられるほど種類があるのか、と驚いた。
「スマートフォンやパソコン作業での目の疲労軽減ということで、ブルーライトカットのレンズが定番です」
 と、おそらく一番人気であろうレンズをすすめられた。が。
「あ、ブ……」
「ブルーライトカットはなしで」
 私が口に出そうとした時、矢晴がはっきりと店員に告げていた。
 ブルーライトカットによって目に見える色味が変わってしまうのは、以前に度なしのパソコン用眼鏡を買った時に知った。モノクロ原稿の時にはなんの問題もないけれど、カラー原稿をやってる時にパソコン用眼鏡を外して見たら、思っていた色と全然違っていて、慌てて直した。あれ以来、買ったパソコン用眼鏡は使っていない。
 日常の風景ですら、色味が変わってしまっては感じるものが変わってくるだろうと思う。矢晴はもう絵を描かないと頑なに言うけれど、色への感度は高いままなのだろう。
 初めてふたりで散歩した、あの日。ミント色の錆びた鉄柵の前で立ち止まった時にも感じた。福田矢晴の感性。古印葵の、あの透明感のあるカラーはこの感性から生まれるのだと、知った。
 そんな矢晴の視界から、色を減らすなんてしたくない。私がそう思って言おうとしたことを、矢晴が先に言ってくれたことに驚きもしたが、嬉しさが勝る。
 その後、いくつか確認しながら、矢晴の視力に最適なレンズを店員が選んでくれた。
「それではこちらでお作りいたします」
 出来上がりは1週間後、と眼鏡をかけた矢晴を見る楽しみは少しお預け。出来上がった眼鏡のフィッティングがあるから、また矢晴と一緒に来ることになる。

 支払いを済ませて店を出る。車に乗っても矢晴はなんだか浮かない顔をしていて、他にもなにか心配事があるのかとちょっと不安になった。
「出来上がりが楽しみだね」
 矢晴になにが不安なのかと問えば余計に苛まれるだろうと、未来の楽しみへと思考を誘う。
「……また、余計な金を使わせた……」
 なんだ、そんなこと。と言いたいけれど、少し考える。矢晴のことに使うお金は、まったく”余計な金”ではないということを伝えたいけれど、伝え方を間違えてしまえば、私の資産自慢にも聞こえてしまう。
「……生活に必要なものは、余計じゃないよ?」
 状態を確認するための病院代も、よく見えるようにするための眼鏡代も、矢晴に関するものはなにひとつとして余計なものはない。
「それに、眼鏡があんなに安いなんて知らなかった。価格破壊なのかな」
 激安を謳う幟に嘘はなかった。普通の値段を知らないからどれだけ安いのかまではわからないけれど、矢晴が渋るくらいなのだからそれなりの値段はするんだろうと思う。数万円くらいと想像していたけれど、全然そんなことはなかった。
 それよりも、あんなに店内店外の至るところに掲示されていた安さを謳うポスターや幟などが矢晴の目に見えていなかったのだとしたら、矢晴の近視の度合いのほうが重症なのかもしれない、と思い始める。
「矢晴の日給でお釣りが来るよ」
 ちょうど信号待ちで停車したから、そう言いながら矢晴の顔を見る。と、矢晴はすごく驚いたような顔をしていた。その表情からは不安から無意識に見ないようにしていたのか、近眼で見えていなかったのかの判別はつかない。でも、すぐになんだか安堵したような顔になったから、どっちでもいいかと思った。
「じゃあ、今度……払うから」
 そう言う矢晴は少し恥ずかしそうに俯くけれど、その声は少し誇らしげにも聞こえる。なにもかもを私の世話になっている現状を厭う素振りは端々にあれど、殊更に金銭面で負い目を感じているのだろう。矢晴のために使った金を返せなどとは言ったことも思ったこともないけれど。
「うん、わかった」
 矢晴が私のアシスタントの仕事をして稼いだ金で、自分のものを買い揃えることが矢晴の心の安寧につながるのであれば、それを断る理由はなかった。

 いよいよ受取日、と朝からウキウキしてしまった。けれど、矢晴は一人で行くから、と私は車で待機させられている。
 昨日、矢晴の仕事の給料を週払いで精算して、その中から眼鏡代を受け取った。今、矢晴が受け取りに行っている眼鏡は矢晴が買ったものということになる。自分で買ったものを自分だけで受け取る、その行為が矢晴には意味があるのかもしれない。逸早く矢晴の眼鏡姿を見たい私にとっては一緒に行けないのがちょっとさみしい。
「おまたせ」
 矢晴は行きには持っていなかった紙袋を手に助手席に乗り込む。眼鏡姿を期待したけれど、矢晴は裸眼のままだった。
「どうだった? いい感じ?」
 逸る気持ちで矢継ぎ早に聞いてしまう。それに答える矢晴は「うん、まあ……」とあっさりとしていた。
 どうせなら街並みをクリアな視界で見ていけばいいのに、と思うものの、無理強いするのはいけないと思って我慢した。

 家に帰り着いて、昼食を済ませたら午後の仕事。矢晴の眼鏡は仕事用でもあるんだから、きっと眼鏡をかけてくれるはず、と期待しながらふたりで2階に上がった。
 仕事部屋に入り、それぞれのデスクについて、パソコンを立ち上げる。起動を待つ間に矢晴のほうを盗み見ると、ちょうど真新しい眼鏡ケースから眼鏡を取り出すところだった。そのままこっそりと矢晴を見守る。
 矢晴の手が眼鏡のつるを開き、髪に隠れた耳にかける。両目を縁取るかっちりとしたフレームが矢晴の知的な印象を強調する。よくよく近寄ってみないとわからないのだけど、選んだフレームは黒一色ではなく濃いグレーに淡いグレーの墨流しのような模様のフレームだから、印象はやわらかい。矢晴によく似合っていて、とても素敵だ。
 度の入ったレンズによって少しだけ矢晴の目のサイズが変わって見えて、レンズ越しの輪郭が歪んでいるのも見て取れる。眼鏡に並々ならぬ情熱を持つ漫画家の描く眼鏡キャラの魅力の一端を理解できるような、気がする。
「なるほど……」
 つい声が漏れてしまって、じっと矢晴を見つめていた私と私の声に顔を上げて私を見た矢晴と、目が合う。
「なにしてるの?」
 矢晴が訝しげに聞いてくるから、手元を見れば、クロッキー帳を広げて矢晴の眼鏡姿をスケッチしていた。まったくの無意識だったから、言われて驚く。
「ねえ、矢晴、写真撮っていい?」
「え……? なんで……?」
「資料」
 矢晴の眼鏡姿を写真におさめていつでも見ていたい、という私欲もあるが、眼鏡をかけた人の輪郭や印象の違いなんかは資料として手元に置いておきたい。
 警戒するような表情をしていた矢晴も、資料にすると言えば、仕方なさそうに了承してくれる。内心の欲望を見透かされて職権乱用だと咎められなかったことに密かにホッとした。
 眼鏡をかけた矢晴の姿を色々な角度から、髪をよけてもらって眼鏡のつるのかかる耳も前から横から後ろから、何枚も写真を撮った。
「どんだけ撮る気だよ」
と、矢晴が呆れたように、でも柔らかい笑顔で言う。その笑顔をばっちりとカメラでとらえて、撮影会を終わらせた。

 夕方には仕事を終えて、夕食後の自由時間。風呂が沸くまでの時間の団欒。
 食事の後片付けを済ませて矢晴のいるコタツに向かう。最近の矢晴は本を読んでいることが多い。今夜はいつもよりも本と顔の距離が遠いなと思ったら、眼鏡をかけていた。
 私の選んだフレームは、とっても矢晴に似合っていて、なんだか誇らしくなった。仕事中に使っていた眼鏡は知的な印象が強かったけれど、私が選んだ淡い色合いの曲線は矢晴の落ち着いた優しさや穏やかな印象を表現できている。
「今度、図書館でも行く?」
 コタツにもぐりながら矢晴に問いかける。
「……ん? なんで?」
 矢晴が本から顔を上げて私を見る。レンズを通した私は矢晴にどんな風に見えてるのだろう。
「うちにある本、全部私の趣味か資料だし。矢晴の読みたい本借りてきたらいいかなって思って」
「いや、いいよ。まだまだ読み切れないほどあるし、お前の頭ん中になにが詰まってるのかわかるし」
 図書館へ行くのを遠慮するための方便なのかもしれないけれど、矢晴の言葉に身体の奥底からふつふつと悦びにも似た気持ちがわいてくる。
 私が読んだ本たちを矢晴が読むことで、私を構成する知識を矢晴が知ることになる。同じ本を読んで、矢晴がどんな受け取り方、咀嚼をするのかも気になる。矢晴から語られる解釈はきっと私よりも何倍も深く、本に書かれた以上の真理を伝えてくれるだろう。と思うと、機会を作って読んだ本について語り合いたい欲が生まれる。
「そっかぁ。でも読みたい本あったらいつでも言ってね」
 変ににやけた顔になってなかっただろうか。
「ん……」
 矢晴は短く答えて、視線を本に戻した。少し火照ったような顔色。コタツで暑くなったのかな。
 眼鏡の奥で動く瞳は、しっかりと文字を追っているらしい。見難い文字を読むために目を細めたりもしないで、読むのが楽になったみたい。そんな矢晴の様子を見ていたら、さっき矢晴に言ったことが少しばかり違っていたなという後悔が浮かぶ。矢晴がこれから読みたい本も大事だけれど、矢晴がこれまでに読んだ本を聞けばよかった。矢晴が私の読んだ本で私を知るのと同じに、私も矢晴が読んできた本を読んで矢晴を知りたい。
 けれど、読書に集中している矢晴の邪魔をしたくなかったからまた今度、聞くことにする。
『♪お風呂が沸きました♪』
 機械音声が幸せな時間に割り込んでくる。本に集中していた矢晴にもその音声は届いていたようで、矢晴は静かに本を閉じ、眼鏡を外して本の上に置いた。
 眼鏡をかけた矢晴も素敵だけど、やっぱりなにも隔てるもののない裸眼の矢晴がかわいいなと再認識する。
「お風呂入るよ」
「はーい」
 リビングを出る矢晴を見送ったあと、コタツに置かれた本と眼鏡に視線を戻す。眼鏡の定位置も決めないと、と考える。リビングで本を読むために使うなら本棚の上とか引き出しとかがいいのかな。テレビ台にも収納は余ってる。矢晴が戻ってきたら相談しよう、そうしよう。と心に決めた。















着手:2022/11/10
第一稿:2024/05/30

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