二次創作:おはようからおやすみまで

 朝、目が覚めて最初に見るのは、隣に眠る矢晴の寝顔。
 私の部屋で、同じベッドで寝るようになってどれだけ経ったか。隣に人のぬくもりを感じながら目が覚めることには慣れたけれど、矢晴の寝顔のかわいらしさにはいまだに慣れない。毎朝、新鮮な喜びで心が満ちる。
 身体を丸めて眠っているのは、それが安心する姿勢だからか。起きている間は首を隠している髪が流れて矢晴の細い首がうなじまであらわになっている。
 そろそろかな……。首筋に指を這わせると、矢晴が少し身動ぎして、薄く目を開け、顔をこちらへ向けた。
「……おはよう、純」
 寝起きの、少しかすれた声で矢晴が言う。まだ覚醒しきらない柔らかな笑顔。
「矢晴、おはよう」
「ん……」
 また目を閉じた矢晴が手を伸ばして、布団と間違えているのか私の手を引き寄せるから、そのままもう一度横になった。

 いつもより少し遅い起床。
 矢晴と一緒に階下に降りて、洗面所へと向かう。前までは朝に動けない矢晴を台車で運んだりもしたけれど、最近は台車の出番もなかなかない。寝起きでぼんやりしていて足元がおぼつかないから、矢晴が階段を踏み外さないようぴったり寄り添ってエスコートするのが朝の日課になった。
 広い洗面台で並んで歯を磨き、顔を洗ったら脱衣所兼洗濯室でパジャマからジャージに着替える。矢晴が寝間着に着ていたスウェットと私のパジャマと使ったタオルと、まとめて洗濯機に放り込んでスイッチを入れる。
 洗濯機が仕事を終えたら、乾燥機に移すだけ。それは朝食後。

 ふたりで食卓について、朝食。
「今日も仕事?」
 と矢晴が聞くのは、仕事部屋にこもってしまうのかどうか、を知りたいから。というのに気づいたのは少し前。
「今日はネーム作業だから昼までリビングかなー。お昼食べたら仕事部屋で打ち合わせ。その後は未定だけど」
「ふぅん」
「打ち合わせが終わったらおやつ買いにコンビニ行くから、一緒に散歩しよっか」
「……うん」
 誘うと少し嬉しそうに見える。
 矢晴は、以前よりも朝に食べる量が増えた。食事の前に必ず飲むようにした生姜と酢のドリンクが食欲増進効果ももたらしてくれているのかもしれない。身体を温めるのにいいらしいからと取り入れたレシピ。
 最近は矢晴の“湯冷め”もそんなにひどくなっていない、気がする。その分、夜にちゃんと眠れるようになったのかな、と思うけれど、一緒に寝ている私は矢晴よりも先に眠ってしまっているから矢晴の睡眠時間の正確なところは把握できていない。スマートウォッチとアプリで睡眠時間を記録したりするのは矢晴は嫌がるだろうか。
「ごちそうさまでした」
 と矢晴が手を合わせて食事終了を告げる。自分の使った食器をまとめてキッチンへと運び、シンクに置くと、カップを白湯で満たして戻ってきた。
 朝の薬と、各種サプリ。飲みにくそうだった大きな錠剤のサプリは小さなものに変えた。何度かに分けて飲み下す矢晴の白い喉を見ながら、そろそろサプリの種類も量も見直してもいいかもしれない、と頭の片隅にメモをした。

 朝食の食器を洗って、洗濯室で洗った衣服を乾燥機に移す。温室の植物に水をやり、2階の寝室のベッドに布団乾燥機をセットして、仕事部屋からネーム作業に使うタブレットと台を持って出る。廊下で2階のロボット掃除機たちとすれ違って、階段を降りて1階のリビングへと戻る。
 私がリビングに戻ってくるまでの間、矢晴は食休みにソファーの上で寛いでくれている。1階のロボット掃除機たちも活動していて、家の全てが“動いている”感じがする。1日の始まり。

 コタツに台をセットして、タブレットを設置する。
 音が気になるということはないから、矢晴がテレビを見たりしてくれてもいいのだけど、矢晴はソファーでクッションを抱えてるっぽい。抱きしめられてるクッションが少し、うらやましい。
 私が作業を始めてしばらく経って、リビングを徘徊していたロボット掃除機たちがそれぞれの巣に戻り、窓の外から届く昼間の音と私がペンを走らせる音だけが聞こえる。矢晴はなにもしないで退屈じゃないかな? と思ったところで、矢晴がソファーから立ち上がってなにか小さく呟いて、リビングを出て行った。
 数分後にリビングに戻ってきた矢晴は、ソファーに戻らず、コタツに来た。たぶん、さっき呟いていたのは「トイレに行く」とかだったのかな。
 私の斜め前に座った矢晴は、コタツの天板に頭を乗せる。画面から視線を外して矢晴を盗み見ると、顔はこっちに向けているけど目は閉じてて、なんだか天板に耳を澄ましているみたいに見えた。
 またしばらくは、私のペンの音と外の音がリビングに響く。さっきよりも近くに感じる矢晴の気配がなんだか嬉しい。以前は自分の部屋で寝込んでいることが多かった矢晴が、最近はリビングで過ごすことが多くなった気がする。私が仕事部屋で作業をしている時間以外は、同じ空間を共有することが多くなったのは、確か。
 集中力が切れたわけではないけれど、ペンが止まる。ここは頭の中で組み立てていたときにも詰まったところ。描き出してしまえば流れで絵が浮かぶかと期待していたけれど、そんなことはなかった。
 画面を見つめて、考える。読み返して、考える。
「んーーー」
 と唸ってみても浮かばない。どうしようかな、と視線を画面から外した時、矢晴と目が合った。古印先生に助言を乞おうか、どうしようか。それよりも……。
「温室でティータイムにしよう」
 今日はまだ矢晴を日に当ててなかったし、気分転換にはちょうどいい。おやつも欲しいところだけど、昼に近い時間だから甘めの飲み物にすればいいかな。
 キッチンで飲み物を準備してトレーに載せる。矢晴はドアを開けて待っていてくれた。

 日差しを集めて上がった温度を逃さない温室は、ぽかぽかとして春の陽気を思わせる。育てている植物も太陽の恩恵を存分に感じているようで、元気に見える。
 人間にとっても太陽の光の恩恵はいろいろとある。体内時計を整え、夜によく眠れるホルモンを生成し、直接浴びれば骨も強くするらしい。太陽も偉大だ。古来から『お日様』と讃えられているのもよくわかる。
 矢晴の隣に座る居心地の良さと、ココアの甘みと、日向のあたたかさを満喫する。
 矢晴もお日様に当たって気持ちよさそうな雰囲気。あたたかさで血行が促進されているのか頬に赤みがさして、太陽の光で照らされて目の下のクマすら薄く見える。かわいい。
「……ネーム、詰まってるの?」
 見惚れていたら、ふいに矢晴がこっちを向くから、ばっちり目が合ってしまった。前はすぐに目をそらされてたけど、今はじっと見つめられるから少し照れる。
「うん、なんだか絵が決まらなくて」
「どんなシーン?」
「うーんとね……、えーと……」
 説明しようとして言葉に詰まる。というか、頭のなかが真っ白。言語化もできなければ絵も浮かばない。うろたえる私を見て、矢晴が少し笑った。
「ふふ。天下の望海可純先生でもそんなことあるんだな」
 矢晴の言葉は皮肉っぽいけど、柔らかな笑顔がそれを否定する。
「ラストシーンまで頭にあるなら、詰まってるシーンだけ飛ばして先に最後まで描いたらいいよ。ラストからの逆算で絵が出てくることもあるし、ないほうがいいシーンかもしれないし」
 一般論のようでもあり、矢晴自身の経験談のようでもあり。私にとっては古印先生から賜る金言のように響き、沁みる。
「……うん。うん、そうだね。そうしてみる!」

 温室での休憩からリビングに戻って、作業再開。
 矢晴はさっきと同じところに座って、天板に頭を乗せて目を閉じている。私のペンは軽快に走る。矢晴は天板から響くペン音を聞いているのかな。この振動が矢晴の気持ちを落ち着けるリズムになれているのだとしたら、うれしい。
 結局、絵の浮かばなかったシーンは空白のまま。他のコマを大きくして、そのシーンを入れないでもきっとストーリーに影響がない、とは思うけど……。
「ねえ、矢晴、ちょっと読んでみてくれる?」
 私の声がけに、矢晴は身体を起こす。タブレットを渡すと、矢晴はゆっくりと読み始めた。前に読んでもらったときもドキドキしたけれど、今もすごくドキドキする。
『漫画自体読む気力がなくなってまったく読まなくなったし』と言っていた矢晴が、最近は漫画を読むことへの抵抗が少なくなってきたように見える。“漫画を読む気力”が復活してきた、良い兆候なのだろうと思う。
「……ここの、」
 矢晴の声に心臓が跳ねる。
「過去回想が冗長で、この1コマの表情と台詞ひとつで全部説明できると思う。そしたら……」
 矢晴の口から、私の頭の中にあったのに真っ白なもやの向こうで全く見えなかったシーンが語られていく。なにもなかったわけじゃなく、見えなかっただけ。矢晴の言葉がもやを取り払って鮮明にしてくれる。
「わぁ……、それ、そのシーン入れたかった!」
 さすが古印先生! と口走りそうになって慌てて飲み込む。私にとっては矢晴は古印先生で、古印先生は矢晴だけど、矢晴の受け取り方は違うみたいだと気づいてからは矢晴に対して“古印先生”と呼ばないように気をつけている。
「すごいね、矢晴。なんでわかるの?」
「んー……、わかるというよりも、それが読みたい、……かな?」
 矢晴は私にタブレットを戻しながら、続ける。
「……でも、この過去話はこのキャラのファンなら知りたいことだとも思うから……」
 あとはどっちを採用するか担当と相談、かな。とはいえ、私の描きたかったシーンが矢晴の言葉のおかげで鮮明に頭のなかにイメージが浮かんでいる。これがまた消えてしまわない内にと、私はペンを走らせた。

 私が昼食の準備をしている間、矢晴は食卓で食前の飲み物を楽しんでくれている。
 アルコール依存症の人間が酢酸をとりたがる、というのは知識としては知ってはいても、矢晴と同居を開始した当初のあのポン酢茶漬けには心底驚いた。酸っぱい味を好むとかのレベルじゃないし、調味料の塩分量なんかも考えると毎日あんなでは身体を壊してしまう。今は、食前のドリンクのおかげか調味料の使用量も格段に減ったように思うから、やっぱり調味料の濃い味じゃなくて、酸っぱい酢酸を摂取したかったんだろう。
 昼食後は、乾燥機にかけておいた洗濯物を片付ける。私が服をたたみ、矢晴はタオル類をたたむ。ひとりでやってもそんなに時間のかからない家事だけれど、ふたりでやったらあっという間に終わってしまう。
 矢晴のたたんだタオルは棚に、私のたたんだパジャマ類はチェストにそれぞれ収納する。寝室のチェストにしまう分を持って、矢晴とふたりで2階に向かった。

 私の――今は、ふたりの――寝室に入り、持ってきた服やタオルをチェストにしまう。朝のうちにかけておいた布団乾燥機は仕事を終えてしぼんでいる。それを回収すると、かわりに矢晴がベッドに潜り込む。
 布団乾燥機の温風によって温められた布団は、昼寝する矢晴も温めてくれるだろうか。
 矢晴は夜よりも昼間のほうがよく眠れている感じがする。朝には眠っているのを起こすのだから、夜だって全然眠れていないわけじゃないだろうけど。1日の睡眠時間を考えると、矢晴にとって昼寝の時間も重要だ。
「じゃあ、打ち合わせが終わったら、起こしに来るね」
「ん、またね」
 矢晴が布団にうもれながら、小さく手をふる。その仕草がかわいすぎて、にやけそうになるのを我慢するのに苦労した。

 仕事部屋に入り、昼前に描き上げたネームを担当に送る。折り返しで担当から連絡が来るのを待ちながら、来週分の原稿を立ち上げ、ペン入れ作業を進める。
 以前は編集部に直接出向いて打ち合わせをしていたけれど、矢晴と暮らし始めてからは矢晴をひとりで家に置いておくなんてしたくなくて、電話やオンライン通話での打ち合わせに切り替えた。
 打ち合わせで外出して1日使わない分、作業に充てることができるようにはなったけれど、それでも何故だか時間が足りない。
 先行して進めていたはずの原稿やネームのストックもなくなった。
 それが何故なのかを追及するより、今は目の前の原稿を進める以外に解決法はない。原稿が遅れていて焦っているような姿を矢晴に見せたくもない。
 けれど、日に日に、作業に充てなければならない時間が増えてきて、矢晴と過ごす夜の団欒の時間もままならなくなってきた。
『……じゃあ、そういう感じで〜』
 打ち合わせは滞りなく、手元の作業もそれなりに進んだ。私の描きたかったシーンは本編で採用された。矢晴に冗長だと言われてしまった過去回想は担当からももっとコンパクトに、と言われてしまったけれど。結局本編に過去回想は入れず、コミックスの余りのページに描き下ろしか、もっと膨らませてスピンオフとか、と提案された。
 今の状況では、連載にプラスしてスピンオフなんてことはできそうにない。コミックスでの描き下ろしなら、数ヶ月後だからその時に描けそうだったら描きたいな、と思った。
「はい、失礼しまーす」
 通話を切って、伸びをする。思っていたより打ち合わせに時間がかかってしまった。矢晴はまだ寝ているかな。もう起きてしまっただろうか。
 原稿のデータを保存して、矢晴との約束を果たすため、立ち上がった。

 寝室のドアを開けると、正面に見える大きなベッドは膨らんでいる。まだ矢晴は眠っているのかな、と、ベッドの横から覗き込むと、やっぱり矢晴は丸まって眠っていて、抱きまくらの代わりなのか、私の枕を抱えていた。
 穏やかな寝息に、安らかな寝顔。つややかな黒髪はなめらかで細く柔らかい。起こすのが忍びないが、これ以上眠っていると夜に眠れなくなってしまう。
「矢晴、起きて。散歩に行くよ」

 コンビニまで片道10分。矢晴と話しながら歩けばあっという間に着いてしまう。
 昼下がりとはいえ、冬の外気は肌を刺す。一段と冷えこんできた気がするから、風邪をひかないように早く家に帰ってあたたまったほうがいいのだろうけど、矢晴と過ごす時間がもっと欲しいし散歩だし、と少し足をのばす。矢晴の運動にもなるし、このところずっと机の前に座ったままで自分も運動不足だ。
 家に帰ったら、原稿の残りのペン入れを進めなきゃいけない。そうしたら仕事部屋にこもってしまうことになるから、矢晴と一緒にいられない。
 公園の日当たりのいいベンチに座って、コンビニで買った肉まんとお茶を矢晴に渡す。アツアツとまではいかないが、まだ十分に温かい。
 冬の日は寒くても。矢晴と一緒に。食べる肉まんのおいしさとあたたかさ。楽しい気持ちで心が満ちる。
 こんな日々がずっと続けばいいのに。
 こんな日々を続けるためには……、私が――。

 矢晴との散歩から帰り、夕食までの時間を仕事部屋での作業に充てる。
 矢晴はその間、家の中のどこでなにをしているのかな、と気になりもするけど、矢晴の手の届くところに酒類は置いていないし、財布もICカードも預かったまま。ちょっと長めの散歩で疲れてリビングのソファーで休んでいたから、そのまま本を読んだりしているかな、と思う。
 なにかあれば、なにもなくても、言ってくれればすぐ行くよ、とは言ってあるし、スマホに連絡があったり部屋の外から声がかかるということもないから、安定して過ごしているのだろうと思う。
 1日の作業終了の時間を知らせるアラームが鳴る。予定していたページ数は進んでいないから、夕食後にも作業を進めなければならない。
 また、矢晴と過ごす時間が減ってしまうな……と残念な気持ちを持ちながら、夕食の準備をするために1階へと向かった。

 リビングに入れば、矢晴はそこにいて。
 ガラステーブルの上にはなにかを飲んだんだろう置きっぱなしのコップや、さっきまで読んでいたのかもしれない数冊の本。鼻をかんだのかテーブルを拭いたのか丸められたティッシュがいくつか。本棚は少し雑然としていて、選んだ形跡が見える。
 ほんの少しの時間でも、矢晴が活動した痕跡はそこかしこにあって、ひとりでのびのび過ごしていた矢晴を想像して、微笑ましい気分になる。そしてまた、ほんの少しの時間でもこんなに汚せるのは、矢晴の才能だろうかとも思う。
 私がロボット掃除機たちを引き連れて矢晴の痕跡を辿って片付けている間、矢晴はなんだか申し訳無さそうな雰囲気でソファーの隅に膝を抱えて縮こまっている。
「お腹すいた?」
 と声をかけると、矢晴は少し自分の体と相談するような素振りをして、「うん」と答えた。おやつに肉まんは少し多かったかもと思ったけれど、矢晴の体はしっかり消化してくれたらしい。
「なにか食べたいものある?」
「なんでも……」
 矢晴は好物を主張したり、好きなものを選んだりすることがほとんど、ない。養われている立場だから遠慮しているのかもしれないけれど。矢晴には好きなものをたらふく食べて、好きなものに囲まれて、安心して暮らしてほしいと思う。
 片付けを終わらせて、夕食前の矢晴用のドリンクをテーブルに出すと矢晴がテーブルにつく。私はキッチンで夕食の準備をしつつ、風呂のリモコンを操作する。夕食後には適温の湯で風呂が満たされる。
 あたためた夕食のおかずをそれぞれの皿に盛り付ける。彩りと栄養とを考えて、生野菜をいくつか切って盛る。茶碗にご飯を盛り、箸を用意し……としていると、ドリンクを飲み終わった矢晴がやってきて、茶碗と箸とを食卓に運んでくれる。おかずの皿を運び、汁物を運び、水のボトルをテーブルに置いたら、私も食卓につく。
「いただきます」
 ふたりで手を合わせ、目を見合わせて、食事の挨拶をする。
 いつの間にか、正面に座るようになった矢晴。いつの間にか、目をそらさなくなった矢晴。いつの間にか、笑顔の増えた矢晴。
 編集部で会ったのが遠い昔に思えるくらいに、同居を始めたのが遠い昔に思えるくらいに、目の前の矢晴は血色が良くなったし、少しふっくらとした感じで、輝いて見える。
 こうしてふたりで食卓を囲む、この時間にも、とても幸せを感じる。
「ごちそうさまでした」
 食事を終えた矢晴は朝と同じに食器をキッチンへと運び、白湯を満たしたカップと薬を持って戻ってくると、私の目の前で薬を飲む。
 薬の飲み忘れを防ぎ、薬を飲んだことをふたりで確認するためにふたりで決めた。薬を飲んだか飲んでないか、なんて行き違いをなくすため。
 薬を飲んでいるからといって矢晴が不安定にならないわけでもないのは理解した。それでもやっぱり薬のおかげか、安定して過ごせているようだから欠かすわけにもいかないし、過剰摂取にならないようにの服薬管理も重要なのだと思う。
 少しズボラなところのある矢晴でも、朝夕の食後のテーブルで薬を飲む、という行動は習慣として定着したみたいだ。
 処方された薬の量も、矢晴に合っているのだろう。ネットで買ったという薬をデタラメに飲んでいた頃に比べたら、格段に落ち着いていると思う。
 矢晴の使ったカップと薬の包装のゴミとを自分の使った食器と一緒にキッチンに運ぶ。私が食器を洗っている間に矢晴はコタツで横になって食休み。
 洗い物を終えた私は、冷蔵庫から昼間にコンビニで買った新発売のスイーツと常備しているスポーツドリンクを取り出して、コタツへと向かう。
 ごろごろぬくぬくと気持ち良さげな矢晴のそばに座り、足を伸ばせば矢晴に当たる。意図をもって矢晴をつつくと、矢晴は起き上がって座り直した。
 コタツで温まりすぎて脱水を起こさないように、また入浴前の水分補給にと矢晴の前に置いたスポーツドリンクに矢晴が手を伸ばす。
 矢晴が喉を潤したところで、デザートを一口。矢晴にスプーンを差し出せばぱくりと食べる。雛に餌付けをしているみたいな、楽しさと嬉しさ。甘味を一人分平らげるほどの余裕はないようだけれど、私の分を一口差し出せば食べてくれる。そして甘味にとろけるかわいい笑顔を見せてくれるのだから、やめられない。もう一口欲しいときには自動的に口が開く。けど今日はもう十分みたいだ。
 夕食後の団欒を過ごしていると、キッチンから風呂が沸いたことを知らせる音楽と音声が流れる。矢晴は入浴を面倒がったり渋ったりはしなくなったけれど、のんびりと過ごしていた団欒の時間が中断されるのには残念そうな表情をする。
 私だって、とても残念。これが同じ気持ちなのかどうかはわからないけれど、私まで曇った顔をしてしまっては、風呂に入るという行為自体に嫌な気持ちを抱かせてしまうかもしれない。
「矢晴、お風呂沸いたよ」
 と言いながらコタツの中の足をつつけば、矢晴は緩慢な動作で立ち上がった。

 矢晴が入浴している間に、さっき使ったスプーンを洗い、明日の分の米を研ぎ、炊飯器にセットする。2階に上がって寝室の空調を確認し、電気毛布のスイッチを入れておく。リビングに戻る道中で、家中の戸締まりを確認していく。
 ざっと残りの家事を済ませて、リビングにドライヤーを用意すると、ちょうど矢晴が風呂から出てきた。
 ガラステーブルとソファーの間に座る矢晴の髪を、ドライヤーで乾かす。
 この前、矢晴の電気毛布を探したついでに出てきたうるおいドライヤー。矢晴の柔らかくて細い髪にはぴったりなようで、つややかな黒髪に、以前にも増して天使の輪が輝く。
 ドライヤーの温風に乗ってフローラルオリエンタルの甘い香りが立ち昇る。自分も使っているシャンプーなのに、矢晴の髪から香る匂いは知っている以上に魅力的な香りに感じる。
 毎日同じものを食べ、同じシャンプーで髪を洗い、同じバスジェルで体を洗う。内から外から、同じもので構成されている私と矢晴。でもやっぱり違う矢晴と私。私の匂いも矢晴に魅力的に感じられていたらいいなと思う。
 指先に触れる髪や地肌に水分を感じなくなり、名残惜しい気持ちでドライヤーのスイッチを切る。眼下で矢晴が頭を振って乾いた髪がさらさらと揺れる。そして矢晴は私を見上げて「ありがと」と微笑んだ。
 ソファーに座る私の膝の間にすっぽりおさまり、いつもよりも低い位置。風呂上がりの上気した肌、上目遣いに微笑むその可愛さときたら。私以外の誰にも見せたくない、という独占欲に似た気持ちと、矢晴の笑顔を見れるのは私だけ、という優越感に似た気持ちとが湧き上がる。ただただ矢晴が可愛くて、幸せを感じた。
「純は……?」
 ドライヤーを片付けている背後から矢晴の声がかかる。この後どうするの?って聞きたい感じのニュアンス。
「アシから戻った原稿チェックしなきゃだから、後でお風呂入るよ。布団は温めてあるから、矢晴は先に寝ててね」
 本当のことを言っているけれど、自分の原稿が終わっていないと正直に言っていないことに居心地の悪さを感じる。自分から『いくらでも世話します』と申し出て同居してもらったというのに、矢晴の世話にかまけて自分の原稿の進みが悪くなっているだなんて、なにもかもを自分のせいだとネガティブに直結してしまう今の矢晴には言えるわけもない。
「……ぁそぅ……、わかった」

 ふたりで2階に上がり、矢晴が寝室に入るのを見届けて、仕事部屋へと向かう。
 仕事部屋に入って、スリープ状態になっているパソコンを目覚めさせ、アシから戻ったデータを確認する。
 ほんの数分で済んでしまう作業を理由にしたのはやっぱり苦しかったかもしれない。矢晴には見透かされている気もしてしまう。
 アシから戻ったデータをまとめて、とりあえずは終了。それから今、私がやらなければならない原稿のデータを開く。今日中に原稿のペン入れを終わらせてアシに送っておけば、明日は多少時間の余裕ができる、はず。
 なんて思っていたけれど。
 終わらないし、眠いし。時計を見ればもう日付が変わっていた。
「ううう……、疲れた……」
――矢晴に会いたい……。
 眠いまま作業をしていても、終わらない時間を引き伸ばすだけだからと、データを保存して立ち上がる。
 矢晴はまだ起きているだろうか。泣いているかもしれない。もし泣いているならゆっくりと矢晴を抱きしめて慰めて温めてあげたいけれど、それなら先に風呂を済ませてしまわないとと思う。でも――。
 矢晴が泣いているか泣いていないか、なんてここで考えていたって意味がないのに。さっさと風呂を済ませてしまおう。

 風呂は保温されてはいるけれど、やっぱり少しぬるく感じる。矢晴が入った後すぐに入ればちょうどいい温度の湯につかれるのだろうけど、風呂を済ませてからでは作業中に眠くなってしまう。できるだけ昼間のうちに作業を済ませてしまって、夜は矢晴とゆっくり過ごしていたいのに、ままならない。
 湯船から出て、頭からシャワーを浴びる。シャンプーを手に取り、頭を洗う。いつもと同じに心地よい香りだけれど、やっぱり矢晴から香る髪の匂いとは違うな、と思う。
 頭を洗い、身体を洗い、熱いシャワーで泡を流してバスルームを出る。身体を拭いたらパジャマを着込み、洗面所で髪を乾かす。強風で一気に。矢晴に比べると短い髪はあっという間に乾く。
 鏡に映る髪の根元、けっこうのびてきた脱色されていない髪が目立つのが気になる。そろそろ美容院に行かないと、と思う。ここ数日は毎日思っている気がする。人に会うわけでもないからいいけれど、あんまりみっともない姿を矢晴に見せたくない気もする。恥ずかしい姿を見せ合える関係、と思うけれど、それはそれとして綺麗な姿で見られたい。
 歯を磨いたら、あとは寝るだけ。
 身体も頭も疲れたままだけれど、矢晴の待つ寝室に向かう足元は軽かった。

「矢晴ぅ……、起きてる?」
 眠っているなら起こしてしまわないようにと静かに、でも起きているのなら返事を期待して、声をかける。けれど、返事はない。
 照明の消えた寝室。ベッドサイドの読書灯の灯りが照らすベッドの上で矢晴の布団がこんもりと膨らんで小刻みに震えている。
 寒くて震えているだけならいいけれど。矢晴の心や頭のなかで、なにが矢晴を泣かせているのかは矢晴が語らないから私にはわからない。語っても理解できない私に絶望や孤独を感じてより泣いてしまうことを恐れてなのかどうかも、私にはわからない。
 私にはただ、矢晴が泣いている、という事象だけがわかる。
 ベッドに乗り上げて、矢晴のそばに座る。盛り上がった頂点の、背中と思しき場所に手を当てる。布団の厚みで温度は届かないだろうが。
「大丈夫だよ、矢晴」
――私がいるから。
 なにをもって大丈夫というのかすらわからないまま、大丈夫になるようにと祈りを込めて何度も言う。
 布団を通して伝わってくる矢晴の身体の振動が手のひらに感じられなくなり、矢晴が泣き止んだのだろうと思った。矢晴を覆う布団をめくり、矢晴の身体を抱え起こし膝に乗せて、抱きしめる。
「大丈夫だから、ね、矢晴。約束しただろ」
――孤独にさせない。見捨てない。
 抱きしめる手に思いを込める。矢晴の薄い身体は私の腕のなかで脱力していく。私の胸に身を預ける矢晴に愛しさが募る。
――今、矢晴を独りにして泣かせているのはお前なのに?
 頭の中で、もう一人の私が私を責める。そんなことはわかってる。わかってるけど。
 腕の中の矢晴の、首筋の、薄れはじめた契約の印すら、私を責め立てているような気がする。
――ほら。お前のする約束なんてものはこんなに儚い。
 頭の中で私を嘲る私に、そんなことはないと示したくて、矢晴の首筋に唇を寄せる。矢晴を孤独にさせないと誓った。矢晴を見捨てないと誓った。その証を、矢晴の首筋に色濃く印す。
 強く抱いた矢晴が小さく喘ぎ、ぬるい吐息が耳をかすめる。背中に回された矢晴の手が私のパジャマを強くつかんだ。
――私とずっと一緒にいて。私を見捨てないで。
「約束だよ」
 矢晴の耳にささやけば、矢晴の心を示すかのようにパジャマをつかんでいた指が弛む。
 矢晴の体を布団の中に横たえて、電気毛布のスイッチとタイマーを入れ直す。電気毛布であたためられて、矢晴の表情が柔らかくなったように思う。
「おやすみ、矢晴」
 額に口づけ、睡眠を促す。
「……ん、おやすみ」
 少しの間、矢晴と見つめ合った。でも私の瞼はすぐに重たくなって視界を塞いでしまう。布団の中で繋いでいる矢晴の手は、私の体温と変わらない温度で、なんだかふたりの体が溶けてくっついて同化しているような気さえする。
――このままずっと、ふたり一緒に……。
 あたたかい布団の中で、矢晴の匂いに包まれて、幸せな気持ち。そしてやっぱり、私は矢晴よりも先に、眠ってしまった。















着手:2022/09/13
第一稿:2023/02/11

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