二次創作:髪を切る
洗面所に立ち寄った上薗純は驚きのあまり、悲鳴にも似た声を上げた。大きな鏡の前で、福田矢晴が顔に鋏を突き立てているように見えたからだ。
アルコール依存症とうつ病と、いくつかの病名をつけられた精神疾患により生み出される希死念慮ここに極まれり、のように見えた矢晴の行動は、純の脳裏に“自殺”をイメージさせて、心底驚かせ、恐怖を感じさせた。
当の矢晴は、純の声がなにを意味しているのか見当もつかず、鏡越しにキョトンとした表情を見せていた。
数分前に、矢晴が純の仕事部屋に来て、鋏を借りていった。「〈かみ〉を切りたい」という矢晴の言葉になんの疑問も抱かず、純は紙切り鋏を渡したのだが。
「な、なにしてるの!?」
「なにって、髪を切ろうかと……」
焦った声音の純に対して、矢晴はこともなげに答える。言ったじゃないか、という呆れの色すら乗っている。
危ないよ! 怖いよ! 死んじゃヤダ!――と、矢晴に言いたいことが純の頭の中に次から次へと湧き上がる。そのどれもが、飛躍して、感情に任せて矢晴を責め立てる言葉のように思えて、純は口に出すのを躊躇った。
「……。髪を切りたいなら、一緒に美容院に行こうよ」
最善の提案。だが、矢晴の表情は難色を示す。美容院に行くとなれば、対価を支払うということで、それを出すのは矢晴自身ではなく純だからで。衣食住すべてを純に賄ってもらっている矢晴は必要以上に純に金銭的負担をかけることを極度に厭う。そういう矢晴の反応は純の想定の範囲内ではあった。
「じゃあ、私に切らせて」
純の次善の提案に、矢晴は「そのくらいなら……」と頷いた。
リビングのコタツを隅に寄せ、広くなったスペースに食卓の椅子を置く。純は窓の膳板にヘアカットに必要な道具を並べると、矢晴を椅子に座らせ、散髪用のケープをかけた。いつもと様子の違う雰囲気を察知してか、ロボット掃除機たちが虎視眈々とリビングを周回し始める。
純は眼下の、いつもより低い位置に来る矢晴の艷やかな黒髪に櫛を入れた。同居を始めたときにはすでに後ろ髪もひとまとめにできるほど長く伸びていた。そこからもう少し伸びてきた髪は、記憶の中、壇上の古印葵と比べるとずいぶんと長い。
他者と関わらなくなって、身なりに構わなくなって、全てを放棄したような生活の年月がこの髪の長さにあらわれている。
髪を切りたい、と矢晴が思い立ったことは、快方に向かっている証左だろうか。
外界や視線を遮るように目にかかるほど伸びた前髪を邪魔だと思うほど、外界への興味が戻ってきたということだろうか。
「どれくらい切る? 短くする?」
純はそう問いかけながら、昔みたいに、という言葉は飲み込んだ。
「ん、邪魔にならない程度に少し切ってくれればいいよ」
櫛目の通った前髪の隙間から長さをはかるように上目で見る矢晴の視線が純の姿を捉える。上背のある純は矢晴が立っていても見上げるほどだから、座った状態での上目では手元から胸元あたりまでしか見えない。見上げるように顔を上げては髪を切るのに不都合があるだろうと、矢晴は極力動かないようにと我慢した。
純の指先が矢晴の頬を撫で上げて、前髪を掬い上げるように挟み込む。矢晴の目の前で鋏の刃が窓から入る光と室内の照明とを反射してきらめく。
「本格的だね」
「自分で前髪整えたりもしてたから、セットで揃えてたんだけど……」
純はそう答えながら、矢晴の前髪に少しずつ刃を入れていく。
「人の髪を切るのは初めてだから、緊張する」
緊張する、という言葉とは裏腹に落ち着いたリズムで、髪が切られていく音が矢晴の耳に届く。細かい髪の欠片が矢晴の視界の外に舞い落ちていった。
少しずつ、少しずつ。細かく動く手先と音が、望海可純のペンの動きも思わせる。髪の切り方と絵の描き方に相関があるのかないのかと矢晴の思考が穏やかな海に落ちていく。時折顔に触れる純の指先が思考の水面を揺らす。
「こんな感じでどうかな?」
純の問いかけに引かれて、目を閉じていたわけではないが何も見ていなかった矢晴の視界に、かがんだ純の顔が映る。突然の純のアップに矢晴の心臓が跳ねた。
視界を塞がない程度に軽く短くなった前髪。鏡を見ているわけではないから何がどう、と言えるわけではないが、邪魔にはならないし目にかかって痛みを与えることもない。矢晴は具合を確かめるように上下左右に首を振り、問題ないと純に伝えた。
純は矢晴の返答に安心したように笑顔を見せる。矢晴の開けた視界に、窓からの陽光に照らされた純の笑顔が、いつもよりも眩しく見えた。
「少し、下を向いて」
背後から純が言う。純の指がうなじを伝う。指示通りに矢晴が顔を下に向けると、切り払われた髪を忙しなく貪っているロボット掃除機たちが見える。
わずかとて残してなるものか、という気概すら感じるほどだが、純の手が操る鋏は細かな塵を増やしていく。ロボット掃除機たちは純の落とす矢晴の髪を目敏く見つけてはすわ一大事と駆けつけることを繰り返し、純と矢晴の周囲を巡っていた。
矢晴のまとったケープには床に落ちきらなかった髪が点在していて、矢晴はそれを内側から弾いて床に落とす。と、ロボット掃除機たちが駆けつける。落とした髪がきれいになったら、また弾いて落として、と矢晴はロボットたちを翻弄する。
日頃は追いかけられ追い立てられて恐怖する対象でもあるロボットたちだが、今は矢晴があちらへこちらへと操って、ロボットたちは右往左往しているようで。
そのさまが滑稽で、矢晴は思わず笑ってしまった。
矢晴の笑い声に反応して、純が背後からそっと覗き込む。矢晴の顔は見えなかったが、矢晴が笑っている理由は見て取れた。と同時に、笑顔が見えないこの位置に悔しい気持ちも抱く。
ロボットたちで遊ぶ余裕のあるほどリラックスして笑顔を見せているはずの矢晴を正面から見られないことが残念だったが、純に髪を切られることに対しての矢晴の緊張はなくなっているらしいことには安堵する。矢晴に身を委ねられていること、矢晴に安心を与えられていると実感できることは、密かに純を喜ばせた。
髪の毛にはその人の生活が記録されているというのは、本で読んだのだったかドラマか映画で観たのだったか。
今、切り落としている毛先には、矢晴のアルコールに浸かった荒れた生活が記録されているのだろうか。切り落とした記録とともに、矢晴に巣食うイヤな記憶すら消えたらいいのに、と願いにも似た気持ちで純は鋏を動かした。
ある程度切り揃えて、櫛を入れる。長く伸びた毛を押しのけて、時折、生えてきたばかりのような短い毛が飛び出してくる。
この短さは、矢晴がこの家に暮らし始めて栄養状態が良くなってから生えてきたものだろうか。純はそう考えて、自然とにやけてしまった。この短い毛にはこの家でのふたりの生活だけが記録されているのだと思うと、よりいっそう愛おしくなって、だらしなく相好を崩してしまう。純は矢晴から見えない背後に立っていることに、少しだけ感謝した。
「はい、出来上がり」
純は柔らかなタオルで矢晴の顔や首を払い、ケープを外した。細かな髪が床に落ちるが、ロボット掃除機たちは働きすぎたのか満腹になったのか、基地へ帰ってしまっていた。
「鏡見るついでにお風呂に入ったら?」
と、純に促され、矢晴は洗面所へと向かう。純の満足げな表情を見て、初めてのヘアカットはかなり上出来なのだろうと察していた。
矢晴は洗面所の大きな鏡に自身の姿を映す。上薗純という男は、なんでも出来る奴だと常々思っているが、さすがの手先の器用さに舌を巻く。髪の長さはこの家に来たときと変わらない程度に切り揃えられているが、自然に流れる毛先や見た目はそんなに変わらないのに軽くなった後ろ髪など玄人跣に思える。
髪を切ったからなのか、穏やかな時間を過ごしたからなのか、気分が一段上がっている心持ちに気づく。視界に影を落とす前髪がなくなって、鏡の中の自分自身が少し明るく見えた。
軽くシャワーだけ、と思っていたが、浴室に入れば浴槽にはなみなみと湯が張ってあった。髪を切り始める前に純が設定していたのだろうが、いつもながらの手回しの良さに感心を通り越して呆れてしまう。
湯船につかれば、適温の湯に身体を包まれる。湯船に入る前に頭を洗って身体も流したのに、どこに残っていたのか短く切られた髪の毛が水面に浮いていた。それが矢晴に昔の記憶を辿らせる。
(トーンみたいだ……)
デビュー当時、アナログで作業していた頃は、スクリーントーンを使っていた。風呂に入れば、どこから出てくるのか、いつも小さなトーンの欠片が湯に浮いてきた。その記憶は、矢晴に漫画を描くのが楽しかったことと、描き上げた達成感を思い出させた。そして――。
「矢晴〜、着替え、置いとくね〜」
矢晴の記憶が深く暗く沈んでいく前に、脱衣所から純の明るい声が届く。
絶妙なタイミングで、矢晴の気持ちを楽しい思い出と髪を切ってさっぱりとした現実にとどめたことを、純は知らない。
着手:2022/02/27
第一稿:2022/03/01
コメント