二次創作:純の気持ち

  私の家に矢晴が住んでくれて1ヶ月が経とうという夜、矢晴が家を出ていった。
 ソファーに座って真っ赤になって、吐き気を催したような素振りがあって、突然駆け出して。トイレに吐きにでも行ったのかと思っていたら、リビングの外からバタバタと騒がしい音がして、玄関のドアの開閉音が響いた。
 後は静寂。
「……矢晴?」
 矢晴が外に出ていったのだ、ということを把握するのにさほどかからなかった。だけど、その理由がわからない。
『純だって私が家出るって言えば3ヵ月どころか1ヶ月で2人暮らし終了するだろ。馬鹿にする資格ないよ』
 だってあれは例え話で、矢晴が家を出るって宣言したわけじゃない。
 それに、矢晴の財布は私が預かったままなのだから、どこかに行けるわけでもない。
――でも。もしかして。
 私は2階に上がり、仕事部屋へと向かう。ドアには鍵がかかったままで矢晴が入れたとは思えない。それでも念の為。仕事部屋に入り、引き出しをあける。矢晴の財布はそこにある。触った形跡もない。
 矢晴だって大人なのだし、夜の散歩ぐらいするだろうし。
 そう考えても、この家に来てから矢晴が外出したのは、人間ドックに一緒に行ったときと矢晴の病院に一緒に行ったとき、あと……、一緒にコンビニまでは行ったっけ。矢晴はまだ近所の地理すら把握してないと思う。昼間ならまだしも、夜だし。
 1階に降りて、トイレを覗き、風呂を覗き、矢晴の部屋を覗いて、リビングに戻る。どこにもいないから、やっぱり外に出たのだと思う。
「え……、やだ……」
 つい口からこぼれた言葉を自身の耳で聞く。矢晴の外出が嫌なわけじゃない。矢晴がこの家からいなくなるかもしれない、と想像したくないのに想像してしまうのが嫌だった。
――探しに行ったほうがいいのかな。
 でも、入れ違いで矢晴が戻ってくるかもしれない。そうしたら、私がいないことで余計な心労をかけてしまうかもしれない。
――そうだ、電話してみよう。
 でも、なんて言う? 「どこにいるの?」なんて尋問みたいだし、「何時に帰るの?」なんてのもおかしい。逡巡している間に10分が経過して、矢晴はまだ帰ってこない。
 なにを言うかなんて、もういいや。と、意を決して矢晴に電話した。呼び出し音が続く。電話に出る気配はないが、違和感に気づく。耳元に聞こえる呼び出し音とは別に、家の中から着信音がする。私が気付かぬうちに帰っていたのかもしれない、と思いながら、音の鳴る方へと足を向けた。
 そこには、矢晴のスマホだけがあった。
 やっぱり矢晴の姿はない。
 物置に忘れ去られた矢晴のスマホを手に取り、またリビングに戻った。
 矢晴が家を飛び出した理由もわからないし、帰ってきてくれるのかどうかもわからない。財布どころかスマホまで持っていないのだから、もし事故や事件に巻き込まれても連絡すら取れない。
 今まで感じたことのない不安が心を占拠していく。
――なんで?
 同居を始めた当初はかなりの緊張が見えた矢晴も、一緒に過ごす日が進むにつれて、ずいぶんと慣れてきたように思う。私に笑顔を見せてくれる日も多くなったし、矢晴の気分の上下には私も慣れた。日々、確実に仲良くなれていたのだと思う。
 けど。
 家を飛び出していく前の矢晴は――。
――怒ってた……?
 友達とのビデオ通話が終わったタイミングでリビングに矢晴が来た。けど、最初から不機嫌だったっけ……?
 矢晴が来たから、さっき聞いた話をしたくて。でも――。
『純だって私が家出るって言えば3ヵ月どころか1ヶ月で2人暮らし終了するだろ。馬鹿にする資格ないよ』
『それにさっきからさ、使わないって決めてたチクチク言葉、言いまくりだな』
 私の話を聞いた矢晴は、なんだか不機嫌で。思い返せば、私の話した内容も、話し方も、不適切だったと反省する。矢晴は穏やかに叱ってくれたのだと思う。
 それから――。
『純にとって私はチワワ何匹分だよ?』
 あれはどういう意味だったんだろう……?
 私にとっての矢晴は、なにかに換算できるものじゃないけれど……。
――なんでチワワ……?
『そんなの家広すぎてチワワ10匹飼うしかないよね』
――あ。
 私が言った。
 ファミリー向けの広いマンションに、超スピード離婚して配偶者を失い一人暮らしになった糞編集の、見合わない広さに対する揶揄。
――矢晴を……チワワ何匹……。
 矢晴を失ったら、私はこの広い家にチワワを何匹……なんて、やっぱり換算できるものじゃない。それ以前に、もう二度と、矢晴を失いたくはない。
 最悪の想像を頭から振り払い、出ていく直前の矢晴の様子に意識を集中する。
 矢晴は顔を真っ赤にしてて。私は酒を飲んでしまったのかと疑ってしまったけれど、アルコールの匂いはしなかった。
 矢晴は吐き気を催したように口をおさえて。酒を飲んだわけでもないのに、紅潮して吐き気がするなんて、すごく体調が悪かったのかもしれない。
――でも。
 矢晴はトイレに吐きに行ったんじゃなく、外に飛び出していった……。
――体調じゃなく、心因性の……吐き気……?
 ストレスとか、不安とか、緊張とか。
――なんで?
 同居を始めた当初はかなりの緊張が見えた矢晴も、一緒に過ごす日が進むにつれて、ずいぶんと慣れてきたように思う。私に笑顔を見せてくれる日も多くなったし、矢晴の気分の上下には私も慣れた。日々、確実に仲良くなれていたのだと思う……。
 思考が空回りする。
 矢晴が飛び出していくなんて突然で、何の予兆もなくて、そうなる理由もわからない。矢晴の気持ちや心のなかは、私には到底、計り知れない。
――ああ、ダメだ。考えがまとまらない。
「…………お風呂、入ろ」

 湯船に浸かり、矢晴のことを考える。
 どれだけ考えても、矢晴がどうしてあんなことを言って、どうして家を飛び出したのかはわからない。
――矢晴のことだけは、底知れなくて把握しきれない……。
 矢晴は私の知らない感情で動いてる。
 いつも泣いているのも、突然憂鬱になってしまうのも、病気のせい。
――飛び出していったのも、病気のせい……?
 それは、なにか、違う気がする。
――私と矢晴の違い……。
 矢晴は古印先生で、恋愛漫画を描いていた。私は人に恋する気持ちはわからないけど、矢晴の漫画は好き。
――恋愛を知ってる矢晴と、知らない私……。
 なにかが繋がりそうな気がしたその時、遠く小さく、玄関の開閉音が聞こえた気がした。
――! 矢晴が帰ってきた?
 すぐにでも飛び出して、確認したい衝動に駆られるが、濡れたままだし、裸だし。慌てた素振りを見せれば、矢晴が気に病むかもしれないし。
 努めて落ち着いて、身体を拭き上げ、パジャマを身につけた。
 洗面所から出て玄関を見れば、矢晴の靴が脱ぎ散らかしてある。それだけで、安堵した。
 リビングにはいない。トイレにもいない。から、自室に戻っているのだろう。
 矢晴の部屋をノックして、ドアを開ける。
 部屋の中は電気が消されて暗かったけれど、廊下の明かりでベッドのふくらみは確認できた。
「おかえり、矢晴。もう大丈夫?」
 努めて、平静に、声をかける。
「眠いから、明日、風呂入る」
 矢晴からは素っ気ない返事。だけど、大丈夫そう。
「そう。おやすみー」
 どこに行ってたの? なんで出ていったの? と聞きたい気持ちを抑え込んで、ドアを閉める。帰ってきてくれただけで、嬉しかったし、矢晴が眠いというのを邪魔するわけにはいかない。
 戸締まりをして、リビングに戻る。テーブルの上に置きっぱなしにしてしまった矢晴のスマホに気づく。渡しそびれた。明日、渡せばいいか、と手に取って、寝室に向かった。
 階段を上がっていくうち、矢晴が帰ってきたことへの安堵の気持ちが高揚した気分へと変わっていく。
――矢晴がうちに帰ってきた!
 そう思うと、飛び跳ねたくなる。
 寝室に向かうまでの廊下を小さくスキップして、扉を開けて助走して大きなベッドにダイブした。
 ベッドの上で転がってサイドテーブルに矢晴のスマホを置く。反対側まで転がって、また中央まで戻る。それでも嬉しい気持ちはおさまらない。
 矢晴がうちに来てくれた時と同じくらい、矢晴が帰ってきてくれたことが嬉しい。
 ベッドの上で飛び跳ねたい気持ちだが、天井や照明に頭をぶつけた痛みを思い出し、ベッドの上で転がるだけにとどめた。


 





















着手:2022/06/20
第一稿:(2022/07/06)

コメント