二次創作:矢晴が決めた日
上薗純の運転する車で自宅へと送り届けられる。さっきまでいた上薗純の自宅とは雲泥の差の安アパート。
溜め込んでしまっていたゴミは泥酔して眠っている間に上薗純に片付けられた。こんなに広くて、こんなに狭いのだと、何年、何ヶ月ぶりだかに見る部屋の全体になんともいえない感情が渦巻く。
――天国みたいだった……。
上薗純の家は広くて清潔で明るくて暖かくて――。
空虚な自室は、ここで暮らしているなんて信じたくないくらいに、汚れていて、染み付いた臭気が鼻につく。
「……寒」
自分の布団に潜り込み、薄い布団で身を包む。上薗純の家の暖かさに身体が慣れてしまったからという以上に、これまで感じたことのない寒さを感じた。
分厚い壁のように要塞のように堆く溜め込んだ、惨めさの象徴のようなゴミの山にすら守られていたことに気づく。
――これから……どうしたら……。
『新しい我が家はどうですか?』
――本当に、あの家に住んでしまっていいんだろうか……?
『こんな日がずっと続いたらいいですね』
――ずっと……続くんだろうか……?
『助けるのが目的です』
――信じても……いいんだろうか……?
騙されて、殺されたとしても、ここで――こんなところで――凍え死ぬよりはマシかもしれない。
一度でも味わってしまったら、もう戻れない。求めずにはいられない。
――あいつはそれをわかっていて、私を連れて行った……。あの楽園に……。
ノックの音がした。
気づけば、いつの間にか明るくて、射し込む日の光でほのかに暖かい。空虚な部屋の薄ら寒さはあるけれど、夜ほどの寒さは感じない。
「矢晴さーん、差し入れです」
ノックの音とともに、上薗純の声が扉の向こうから。私は緩慢な動きで布団から抜け出して、扉を開ける。
「矢晴さん! おはようございます」
今が何時かはわからないが、朝ではないだろう明るさの中に上薗純がいた。
上薗純が差し入れだと持ってきたのは、ランチジャーに入れた弁当だった。保温された料理はどれもまだ温かく、上薗純が水筒から注いで渡してきたお茶も熱いくらいに温かい。
私が弁当を食べるのを、上薗純は笑顔で見守る。見つめられるのが居た堪れない気分になって、視線を外す。
「眠れました?」
「……たぶん」
眠れたのかどうかは正直なところわからない。気づいたら明るかったのだから、眠っていたのだろうとは思う。
「この部屋、暖房とかないですよね? 寒くないですか?」
暖房器具があったとしても、電気もガスも止められている。電気がなくては無用の長物の冷蔵庫も酒代の足しに売ってしまった。
「灯油とかだと火事が怖いし……」
上薗純はなんだかブツブツと考えている。上薗純の視線が私から外れていることに少し安堵した。
「ちょっと行ってきます。矢晴さんは食べててくださいね」
そう言って、上薗純は部屋を出る。そのままもう戻ってこないのかもしれないが、とりあえず、上薗純の持ってきた温かい弁当で腹を満たした。
「戻りましたー」
上薗純が扉を開けて、部屋に戻る。その手にはなんだか大きな荷物があった。
「毛布、買ってきました。ちょっとは暖かく眠れるかと思って」
上薗純は手際よく、私のカビ臭い万年床に毛布をセットしてしまう。これでは使わないわけにはいかない。
「あと綿入れです」
と、着せられたのは、綿入れ半纏。
「これで起きててもあったかいですよね」
正面に見えるのは、いつか見た優しい顔。
「……なんで、こんなこと……」
施しを受ける哀れさに視線を落とす。見つめる先はゴミのなくなった薄汚れた床と似つかわしくない真新しい毛布のかかった布団。
「本当はうちに引っ越してきてほしいんですけど無理強いはできませんし……その気になるまで通ってお世話しようかと」
――その気になるまで……?
何日、何週間、何ヶ月、何年――? 一生その気にならなかったら――? 通い続けられるのか――?
売れっ子の人気漫画家が、仕事の傍ら、こんな人間のもとに通い続けられるわけがない――。すぐに飽きる。いつか飽きる。忙しくて、通い続ける時間もなくなる――。
――そうなったら……、私は……来ない人間を焦がれて待ち続けるのか……?
同居を迫るプレッシャーとともに付き纏われて、待ち焦がれて、上薗純の施しで生かされて、飽きて来なくなる日を恐れて、来なくなっても待ち焦がれて…………。
「……矢晴さん?」
仮に同居したとしても、こいつが裏切らない保証なんてない。約束なんて無意味だ。いつか捨てられる。その日が来るのを怯えて待つだけ…………。
――そんなの……どっちを選んだとしても、地獄じゃないか……?
――……だったら……、だったら……、まだマシなほう…………
釣られて、生け簀に生かされて、いつか死ぬ。
束の間でも、幸せな夢を見れそうな――。
「……い、行きます、純さんの家……」
「え?」
「……引っ越します……」
「ホントですか!? わぁ! うれしいです!」
上薗純にまた抱きしめられた。上薗純に与えられた綿入れがクッションになっているのか、上薗純が加減しているのか、前ほどの圧はない。見えない顔がほくそ笑んでいたとしても、もう、どうでもいい――。
「じゃあ、業者の手配とか済んだら連絡しますね」
今すぐにでも! と息巻く上薗純を宥めるのには苦労した。アパートの退去や引越し業者の手配や何もかも全部、任せてくださいと言うから任せてしまった。
上薗純が去った部屋は、ひとりでいたときよりさらに空虚だ。
私は布団に潜り込む。
上薗純が勝手に買ってきて、勝手にセットした毛布は、私の身体を柔らかく暖かく包み込む。
――この暖かさは、まるで……。
着手:2021/11/11
第一稿:2021/11/13
コメント
最後の、この暖かさはまるで……の後に続く言葉を色々と考えてしまいました。