二次創作:矢晴のバイト(2)

――こんなに喜ぶなんて、思いもしなかった。

「明日、B誌の打ち合わせがありまして。ここからのほうが近いので泊まらせていただけたらと思……」
「古印先生、今日も泊まってくれるんですか!?」
 こちらが最後まで言うのを待たず、望海可純こと上薗純はダイニングテーブルを乗り越えんばかりに身を乗り出す。その瞳はキラキラと輝いて、本当に嬉しそうで。
「え……、ええ。望海先生さえよければ」
「大歓迎です! あと今はプライベートなので純って呼んでください」
 そう言って、純はにっこりと笑う。
 アシスタントとしての仕事中は『望海先生』『矢晴さん』と呼びあい、プライベートでは『純さん』『古印先生』と呼びあう。なぜだかそういうルールになってしまった。
 純が自身を律するための公私の別になるのだろうが、まともに漫画を描いていない身としては『先生』と呼ばれるのは気後れしてしまう。
 そして、今は昼の休憩。純とテーブルをはさみ、ふたりで昼食をとっているところ。仕事をしている日の休憩時間は就業中か否か、というと時給で働いているわけではないのだから、プライベートになるのかもしれない。
「あ、明日打ち合わせってことは、ネームとか持ってきてるんですか?」
 純の表情が明らかに期待にはちきれんばかり、に見える。
「……ええ、一応」
「読みたいです!」
 話の流れから、そう言うだろうことは容易に想像できた。だが、純は古印葵の漫画を読むときは、その場で2周はする。それもかなりじっくりと時間をかけて読む。今回はネーム状態だからそこまでじっくりと読めるような代物ではないと思うが、それでもこの昼休憩中には読み終わらないだろうと思う。
「……、じゃあ、午後の仕事が終わったら……」
 望海可純のアシスタントとしては、先生の作業に支障をきたすような行為はできない。仕事終わりに楽しみがあれば、先生の作業も捗るだろうと思う。とはいえ、これまで見てきた望海可純の仕事ぶりは、私の何倍も手が速くて、効率的で、アシスタントがいなくても一人で十分やっていけるのではないかと思えるほどだった。
「やったあ! マッハで終わらせます!」

 マッハで終わらせる――望海可純のその言葉に嘘はなかった。物理的にマッハで、なんてことは無理なことではあるけれど、私の仕事すらなくしそうな勢いで原稿を仕上げていく。速すぎて雑になっているわけでもない。
「終わりました!」
 望海可純のペン入れが終わり、アシスタントへの指示書も書き終わって共有サーバへのアップロードを純が済ませる。あとはアシスタントの仕上げ待ち。アシスタントの私の仕事はまだ終わってはいないが、望海先生の仕事は予定終了時刻よりも数時間も早く終わった。

(まだ読んでる……)
 純の家の風呂を借りた。夕食後、純はリビングのソファーで、また私のネームを読み始めており、私は残った作業を仕上げてから風呂に入った。そして風呂上がりの今、純はソファーでまだ読んでいる。
 夕方前に仕事を終わらせた純は私からネームを受け取るとそのまま読み始め、やっぱり2周した。下手な鉄砲というわけではないが、どうにか掲載までこぎつけたいと、どれかが残るようにと今回は3本用意していたから、純にも3本のネームを渡した。「こんなに!」と、純は飛び上がって喜んだものだ。
 私は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコップに注ぎ、その場で飲んだ。わずかに物音を立ててしまったが、集中している純は気づかないようだった。
(さて、どうしたものか……)
 何も言わずにあてがわれた客室に戻るのもなんだか失礼な気もするが、かといって、夢中になって楽しんでいそうな純に声をかけるのもためらわれる。とはいえ、私のネームを読んでいる望海可純の姿をここで眺めているのも変な気分だ。
 純の手元の紙の束が整えられる。純が紙の束を見つめて、深いため息をつく。どうやら、読み終わったらしい。
「純さ……」
「古印先生ー!」
 声をかけようとした瞬間に純がこちらを向き、感極まったような声で私を呼んだ。
 純は紙の束を胸に抱えて、駆け寄ってくる。あふれる喜びを振りまいて。
「これ、このネーム、最高です! 特にこの2本目! すごく惹き込まれるストーリーで、どんな絵が入るんだろうって想像しながら読んだんですけど、私なんかじゃ全然想像が追いつかなくて……。完成原稿でも読みたいです!」
 純の言う2本目のネームは、私も気に入っている作品だ。純がそれを見抜いて心にもないおべんちゃらを言っている、というわけでもなく、本心から気に入ってくれたんだろうということが、その表情から、わかる。
「……明日、採用されれば原稿にできますね」
――採用されれば。
 ボツになればこれまでの企画やネームのようにお蔵入りだ。過度な期待は持たせないほうがいい。持たないほうがいい。
「えぇー……。編集部に採用されなくても、描いちゃっていいじゃないですかぁ」
 純は不満げな声音になり、そして、甘えるようなねだるような、自分の願いが叶うことを期待するような声音になる。
「編集が何を言っても、描きたいものは描きましょうよー。掲載する漫画以外描いちゃいけないなんてことないですし! 古印先生が描いてくれるんなら私もアシスタントしたいです!」
「はは……、望海先生をアシスタントになんて、恐れ多くて。そんな高いアシスタント料払えませんし……」
 純の盛り上がりを制するように、断りの文句を冗談めかして差し出してみるが、うまく言えてるだろうか。
「私がプライベートで、趣味で、古印葵先生の原稿を手伝いたいだけなんで、アシスタント料は必要ないですよ!」
「…………」
「あ! でも、古印先生がうちに泊まって、うちの機材で描いてくれたら、それが私のご褒美になりますね。大好きな古印先生がうちに居て、原稿手伝えたら、ファンとして最高の報酬じゃないですか?」
 純の盛り上がりはまったくおさまる気配はなかった。だが、ここに来てやっと、純の言った『掲載される漫画以外を描いちゃいけないなんてことはない』という言葉が私の心に着地したような、そんな気がする。
「純さんに手伝っていただくかどうかはわかりませんが、採用されるかどうかは関係なく、描いてもいいかな、とは思います」
「ほんとですか!? 描いてください! 読みたいです!」
 ここまで喜ばれてしまっては、描かないわけにはいかないようだ。

――こんなに喜ぶなんて、思いもしなかった。









着手:2021/09/10
第一稿:2021/09/14

コメント

匿名 さんのコメント…
はじめまして。二次創作の小説を読ませていただき、とても嬉しい気持ちになります。どうもありがとうございます。