自己
ずっと考えてはいるけれども、やっぱりなんだかまとまらなくて、文章にできるほどの思考はないんだけど、文章にすることでなにかしらとっかかりがつかめんものかと思ったりする。
矢晴の『「どうやって自分が自分になったか」を考えてみたんだ』と語り始める内容が、なんだかねじれている気がするはする。
『赤ちゃんが言葉をしゃべるようになるのは外から聞いた言葉を真似したからだ』『善悪の線引きの基準は外から学習したもので形成されてそこから自分の意見が構築される』というあたりは、【第16話】で純が言った『生まれた時人は服を着ていなかったように』『思考も言葉を持たずに生まれそして言葉を選んで着る』『人間の脳はそういうものだと思う』『私はあなたの言葉を着たい』にも通じそうな話だと思うんだけど。
矢晴は『「自分の考え」は自分一人で全て思いついたものではなく』『他者から学習したものだからだ』と、「己は学習の集合である」と結論づけている感じ。だけども。学習の集合ってのに異論はないんだけど、矢晴は「他者・外部のみから与えられ作られたもので、自身の思考ではない」と言っている感じで、純は「外部から与えられたものを自分で選んで思考する」と言っている感じがする。
と、まとめてみると、私は純寄りの考えかな。
『他者評価は己を作る過程でもあるんだよ』『同時に他者評価は目的やゴールにもならない』というのは正しいと思うんだけど、矢晴のこれまでの言動からはなんとなし矛盾を感じるような……?
『人は他人と完璧な意思疎通はできないけど』『言葉や情報は自己と他者を循環してると思うんだ』というのも正しいと思うんだけど、話が飛躍したのかズラされたのか、さっきまでと話が通じてない感じがしてしまう。
『絵を褒められた経験から漫画を描きはじめて漫画を描いたら褒められて漫画家を目指しはじめて……』『そう考えたらやっぱり「己」は外からの影響で作られてるよ』というのも、正しいとは思うんだけど、たぶんいちばん大事なところを意図的なのか無意識なのか落っことしてる感じはある。
『だけど今の私は』『描いても描いても否定される失敗を経験しすぎて「己」の中が否定で埋め尽くされてる』という矢晴の状態は、それはそれは辛い。
矢晴の話の中では、「自分は絵を描くことが好き」だとか「好きで描いた絵を褒められた」だとか「好きで描いた漫画を褒められた」だとか「自分の好きなものを褒められたのが嬉しくて将来の夢にした」だとか、「好きで描いた漫画を否定され続けた」といった「自分の好きな」ってあたりを言ってないのがとても気になる。「自分の好きなもの」ってのは他人から与えられたものじゃなくて、自分から生まれたものだろうし。
「己は他人によって作られた」ってのに固執してるのか、意図的なり無意識なりで避けているのか落っことしているのかって感じの「自分」。
そりゃあ好きじゃなきゃこんなに苦しまんだろうけど、好きって言わないあたりがなんかもう……もどかしい!
他人の評価なんか気にせんと、自分の好きを貫け! って思うんだけどなあー。そもそも「私程度が他人に読ませられるものを描くには」とか前提条件が厳しすぎるわけだしー? 「自分が好きで描いたものを他人に否定されたくない」って思いからなんだろうなあとは思うんだけど。
純の前で古印葵を貶めんなよ……。古印葵は天才なんだぞ……。
矢晴は好きなものを好きなように描きまくってたらいいのにな。他人に読ませるだとか他人の評価なんて気にせんと。でもそもそもが「人に褒められたくて」で描いてる節もあり……。あと、漫画の演出・表現技法のあたりの話を聞く分には、他人に読ませたくて描いてるんだもんなあ、と思う。
自分の好きな世界を描いた漫画を読んでもらいたい、まではいいけど、そこに「つまらないと言われたくない」はくっつけちゃダメだよな、と思う。
結局、己とは、自分とは、自己とは……ってあたりはとっちらかったまんま終わる。
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