超人
スーパーマン。超人。
矢晴は純のことをスーパーマンと言うし、自分も過去はスーパーマンだった、と言うから、この“スーパーマン”は純と矢晴の共通項である「漫画を描くことに夢中になれる人」ということにはなりそうだけど、なんだか違うような気もする。
スーパーマンを超人、と言い換えると、純の寝室にある『〜かく語りき』で語られているらしい“超人”を示しそうで、純は“超人”なのだというのにも肯ける感じがする。
あと、純は、生理的欲求から自己実現欲求まですべての欲求が満たされていて、次の段階の欲求を求める“超人”になっているとも思える。自己超越の段階だと「自我を忘れて見返りを求めずに、ただただ目的の遂行に没頭する」らしいのだけども、純が矢晴を助けようとすること、生かそうとすることは、この状態に当てはまっているような気がする。
でも、純は矢晴と両想いになりたい自我が出てるから、そこまで自我を忘れているわけでもないような、と思うと、純がかわいい。純が矢晴を助けたいのはエゴなんだよなあ。
ただ、マズローの言うところの「自己超越者」の特徴は、純よりも矢晴のほうに当てはまる項目が多いように思う。
古印葵の漫画は、自己超越者である福田矢晴の思考のエッセンスの結晶なのだとすれば、純がこんなにも心惹かれてしまうのも致し方ないのだろうな、とも思える。
そしてまた自己超越の段階は悟りの段階にも近いらしくて、作者さんが矢晴のことを『悟り風を吹かせている』(SNSにて)と表現するのにも納得がいってしまう。
矢晴ったら人間的にわりとクズだけど人間的に超越して悟ってる感じはあるよなあ、とそしてまた純よりも上等な人間であろうとする・見せようとする感じが『悟り風を吹かせている』のだろうなと思うと、矢晴という人間がとても愛おしい。
【第18話】の『汚い思想が止まらない人間は何度死んでも蓮華座に乗れそうにない』というモノローグが好きで、1記事使ってじっくり考えたいけどいまいちまとまらないから、とりあえずここに書いてしまう。矢晴はけっこう自分で賄える範囲でささやかにおだやかに人として真っ当に生きていたい、みたいな理想がありそうだなあ、というのをこのモノローグからも感じる。
漫画だけに集中できていた頃の矢晴は、さして贅沢するでもなく基本的な生活ができるだけの稼ぎを漫画で生み出せていて(社会的欲求)、衣食住に困るでもなく(生理的欲求・安全欲求)、発表した漫画がある程度認められていて賞を取り(承認欲求)、彼女もいて(愛の欲求)とすべての欲求が満たされていた「自己実現者」になっていただろうなと思うし、その時点で「自己超越者」でもあったのかもしれないな、とも思える。
それが、B誌に移ってからどんどんとすべての欲求を満たすことができなくなって、A誌に戻ってからの連載で完全に自己を破壊してしまった。から、今、純の家で安心・安全に暮らして心の安寧を取り戻して、自己肯定の復活を、みたいに純が働きかけている気がするけども、純に養われている現状では社会的欲求(自分の稼ぎで自分を養う)が絶対に満たされなくて、純一人からの支持では承認欲求も満たされないんだろうなあ、と思うと、なかなかに難航しそうな気がする。
【第21話】の担当の菊池が涙ながらに当時のことを謝った、という出来事が矢晴の心をとかすのは、当時誰も矢晴の言うことを信じてくれなかったことを菊池が後からでも知って気づいて、今、それを伝えたことで「当時の矢晴が肯定された」ということになるのかなーと思って、社会から拒絶されていた感じとか誰にも認められなかった感じとかが溶けて消えるような、社会的欲求や承認欲求が満たされたようなものかしらん? と考えてみたりする。
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