才能

 矢晴は「漫画を描くしか能がない」のか「漫画の才がある」のか、とかほんわか考えていて、言葉の使い方でずいぶんと印象が変わってしまうなあ、というのを考えたりもしていた。

矢晴は漫画を描く才能がある。純も『矢晴は漫画描いて正解だよ』まで言うし、『古印葵先生は天才だ』って言うし。

ただ、その才能を活かせるかどうかってのは、その才能が求められている場にたどり着けるか、見出してもらえるか、みたいな巡り合わせが必要で、見つけてもらえなかったりすれば埋もれるだけになっちゃうよなあ、と思える。

矢晴はA誌に自分で月例賞に応募したり持ち込みしたりで、良い担当さんがついてデビューできてそれなりに漫画家として活動できてと、かなり良いスタートだったと思うんだけど。

矢晴がB誌から声かけられて行っちゃったのは、「漫画家として求められた」という気持ちはありそうだなあ、と思える。でもB誌が矢晴に声かけたのってば、矢晴の漫画をB誌に載せたくて、ってよりは、賞とった作家だからとりあえず囲っとこ、くらいな感じもするし、矢晴の漫画や矢晴の才能を認めて求めて、じゃなかったから、矢晴が悲惨な目に遭っちゃったってのが、ひどすぎだよなあ……、とB誌を恨んでしまう。

漫画家として認められたい、求められたいってのは「承認欲求」になるのだろうけど、(“承認欲求”という語が巷でちょいちょい、悪しきモノみたいに扱われてたり、侮蔑語として機能していたりが不快なんだけども)、自分の描いた漫画がそのまま受け入れられる・求められるというのは、自分自身がこのままで良い、という承認であろうから、自己肯定を育むのに必要だろうなあと思う。

ただ、他人に求められない・認められないから自分には価値がない、という思考に行くのは本末転倒、みたいに思えるんだけども。

矢晴はいまのところ、自己肯定できてなくて自分を無価値だと思っているから、純からどれだけ褒められても世話されても自己肯定が戻らないのが、がんばってる純が不憫だなあ、という気分になる。けど、まだたった1ヵ月半だし、1年経ってもそんなにメンタル変わんないし。

矢晴が漫画を描きたい、って思えて、漫画を描き始めて、なにかしら漫画を発表して、矢晴の漫画を面白いとか良いとかの大衆からの評価があって、やっとこ矢晴の承認欲求が満たされ始めて自己肯定の再建に繋がっていくんだろうなあ〜とは思うんだけど、自己肯定の再建のが先なのかどうなのか。

矢晴が漫画を描きたくなるのは、年内なのか翌年なのか……。年内あと1週間しかなかったわ。

と、よくわからない方向に行ってまとまらないまま終わる。


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