作者と読者

 作者と読者では、作品に対するなんやらかんやらが違うというのは当然のことだと思うのだけども。

【第5話】でアシの木戸から『ご自身であのシーンを思いついた時は感動しなかったんですか?』と言われて純が答える『自分の漫画ではまずないかなあ』『私は漫画のルーブ・ゴールドバーグ・マシンを考えてるだけ』というあたりで、作者の純と読者の木戸の差が出てるなあと思ったりする。

「物語を積み重ねて、読者の感情を高める」というのを考え続ける作者の望海可純と、ただ受け取るだけの読者の木戸では、作者は読者のような「感動」は得られないのが当然で。それを『えー……』『もしかして先生って感情がない?』とか何言ってくれてんだ、木戸コノヤロー! と怒りがわいてくる。

木戸はグループトークで『同人時代のやつじゃんwwwwwwwwww』とか言ってるし、猿田が同人時代のタイトル出してくるし、ももせも『なつwwwwwww』と乗ってきてるから、純のアシスタント連中は、純の同人時代からの知り合いか後輩くらいで構成されてるのかな? とも思えるんだけども、木戸ってアシはするけど、自作を作ったことがないのか……? みたいな気分にはなる。

それなりに気心知れてて楽なのかもしれないけど、アシ一掃しちゃってもいいんじゃない……? みたいな気分になったりもする。ももせはまだちょっと古印葵に興味示してくれたから残してもいいと思うけども。

すぐに話がそれる。

純は古印葵の漫画の読者だから、矢晴が表現したことの全部を理解できてるわけでもないだろうけども、描き手としての立場から【第1話】で『自分の漫画の内容を他人から語られると恥ずかしいよね?』『私もそう』と言っているあたり、古印葵のファンで読者で、というあたりから、同じ漫画家、同業者くらいに意識がランクアップしてる気がするなあとかも思ったりした。

ここで純が『漫画への思いは漫画で描いて返す』と男前でかっこよくて好きなんだけど、この時点で「純が漫画を描いたら矢晴が読む」というのがごく当たり前のことになってるんだなあ、と気づいた。読まれないなら、純は徹夜してでも語り明かしそうな気がするから。

そして、この矢晴の2年ぶりに描いた漫画に対する返歌としての純の漫画は、短編なのかシヴァ・アンバーに組み込まれるのか、というのが気になり始める。


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