現実逃避
矢晴が『漫画を描く目的は「嫌な現実から逃げるため」っていう方が良いモチベーションになると思うんだよ』というのに、半分は納得しつつも、半分は納得いかない気分でいる。
現実よりも創作に没頭するほうが楽しい、というのならわかるんだけども。引き合いに出されていた(「空襲がきても漫画を描いていた人(手塚治虫)」「生涯誰にも見せずに大長編の物語を描いた人(ヘンリー・ダーガー)」)人たちがどんな思いで創作に没頭していたのかはわからないけれど、現実が嫌だから創作に没頭した、と断言できるものかというと疑問。
純も現実よりも創作のほうが楽しいタイプではあると思うんだけど、「創作してると脳からヤバいものたくさん出てきて気持ちいい」からというのは良いのか悪いのかよくわからんが。ただ、純は「自分が人間に欲情できないから孤独」という現実からの逃避先に『私には漫画があるから たぶん、大丈夫』と若干大丈夫じゃなさそうな思考をしているのが気になる。
矢晴の言うように、「嫌な現実から逃げるため」の創作で嫌な気持ちになるのだったら、現実も創作も嫌なものになってしまって、どこにも逃げ場はなくなってしまうのだけど。
矢晴は創作世界では嫌な目にあったわけじゃなくて、自身が商業漫画家であるという現実で漫画を描いていて、仕事や生活のために描きたくもない漫画を描かなければならない、描きたい漫画は雑誌の傾向で没にされる、という現実がのしかかってきたから、描けなくなった、描きたくなくなった、わけだから、なんだかちょっと、矢晴の話に納得できないんだよなあ、と思う。
漫画を描く行為が嫌になった、とは思うけれど。
自分の創作世界に没頭できて、楽しく漫画を描けて、それが自分の生活も支える商業漫画家になれれば、万事解決、という感じはする。A誌でデビューしてからの数年は、そうだったし、さらに国内外で認められて賞もらえて、これからもっと上に行けそうな感じだったのに、なんでまたB誌なんかに……。
「目的」を現実逃避にしてしまうのは、なーんか違うよなあ? と思ってしまって、納得いかない。
ついでに言うと、矢晴の話で『もし漫画を描いた時だけ嫌な思いをして』『描かかずにいれば嫌な思いをしないってなったらさ』『創作においての「己」は根本的に崩れるよ』と言うけれど、ちょっと極論に走っているような気がするんだけど、「創作の目的が現実逃避」だった場合、この例えの現実は嫌な世界ではないから、創作に逃避することなく楽しい現実で生きているだけなのだから、それはそれで、「創作しない幸せな人」になるだけなのではなかろうか……? 現実が楽しいのに創作に逃避するなんてことはなかろうもん、と思うと、矢晴の例え話がおかしい。
詭弁だよなあ。
矢晴の現状はと言えば、仕事として漫画を描くという現実で嫌な思いをして、仕事が立ちいかないで生活が苦しいという嫌な思いをして、家族の問題で現実が辛くて、うつを発症したことで創作に没頭できなくなった、という感じにはなると思うから、今のぬるま湯生活は、仕事でもなく生活のためでもなく、憂いを感じることなく創作だけを考えれば良いという理想の状態に思えるんだけどなあーー! と思う。
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