創作者の

 【第23話】は矢晴が『なにかを描きたくなったとして…だ』と創作やら他者評価やら承認やら、己の成り立ちやらと話を拡張しながら、創作者としての矢晴を語っているような語っていないような。

なんとも不思議な感覚に陥るのだけれども、どんどん話をズラして行って、核心に触れようとしないよなあ……ズレてんなあ……、そういうことじゃないんじゃない……? と、どうにもあまり共感はできなかったりする。

矢晴の自己評価の低さからくる認識の乖離とか、創作の目的とか評価についてとか、矢晴自身が「どうせこうなるからやらないほうがマシ」という方向へ持っていきたいだけという感じが、する。それをことごとく純が軌道修正かけていって矢晴の本音を引き出していくからいいんだけれど。

承認欲求があることによって他者評価が気になる、というのはわからんでもないんだけれど、それを動機にしたら、そもそもの創作は楽しいものではなくなると思う。

自分勝手に追い詰められて、他者の評価によって自分の価値を計り、他人に求められるものが“良い・上手い”、他人に求められないものは“悪い・下手”として、自分の表現でなく、他者の求める表現に寄せていく、なんてことをしたら、創作欲やらなんやら早々に枯渇するんじゃないかな? と思う。

というか、枯渇したでしょうが、矢晴。

面白いかつまらないか、を他人は自分の好みでそれぞれジャッジするけど、所詮はその人の好みであって、作品自体の良し悪しでもなく。

矢晴自身が【第11話】で好みの問題、特性の違いで優劣はない、って話をしているのだから、誰のどんな創作物も、刺さる人もいれば刺さらない人もいるってだけの話だと、思い出せ、矢晴。

自分が好きで作り上げたものが、全世界の全人類に「つまんね」って吐き捨てられたのなら、本当につまらないものかもしれないけれど、絶対にそれはありえない。自分自身はそれが好きで面白いと思っているんだから。と思うから。

A誌での連載作は矢晴自身も面白いと思って描いてるわけじゃないから、そりゃあつまらない作品になってただろうな、と思う。でも、矢晴が描きたいと思って描きあげた作品は、矢晴自身と古印葵ファンの純の心に刺さりまくるわけだし、古印葵の読切を読んでコミックスを買っていた人間は矢晴の描く漫画が面白いと思っているわけだし。

矢晴自身は、おそらく賞をとったことで連載を是非、みたいにB誌に誘われたのに、ことごとく作品をボツにされて方向性を変えられて、とB誌に作家として潰されていったわけだし、A誌に戻っても結局は「流行にのったもの」と作家性を無視したものを生活費のために描くことになって、創作が楽しい、漫画を描くのが楽しいって気持ちを失くしてしまっているから、今、創作するのが辛い怖いって気持ちもよくわかる。

だからあんなこねくり回してどうにか回避しようとしてるんだろうなあ、と。

『私は描かない理由を探してるだけってお前に指摘されて』『まあその通りなんだけど』と言いながら、やっぱり描かない理由を探して捏ねて捏ねまくってるなあ、と思う。

だって、人に読ませるからって前提があったとしても、そこまで必死になる必要なくね? ってしか思えんし。好きなものを好きなように描いて、他人の評価は知らねえや、ってくらいのほうが、絶対いい。

同じ感性を持ってる人は好き・面白いって言うだろうし、違う感性の人には刺さらんし。程度の。

『私は描いたものを人目に晒す時決めてることがある』と語る純の考え方は、かなりいいんだけど、ちょっと純にそぐわない印象があって、ちょっと、ん? ってなる。むしろ昔の矢晴が言いそうな、というか考えていそうだなと思う『人の悪意はこの世にあるだろうが人の善性や知性を必ず信じる』この言葉はもしかしたら、古印葵の受賞インタビューとかなんかで矢晴が語ったことなんではないか? と思ってしまうんだが、どうなんだろう。

だって、なんかこれまでの純曰くの印象から出てくる言葉では絶対ないもん。純ったら自分のためだけに漫画描いてる感じしかしないんだもん。そりゃまあ褒められればうれしいくらいはありそう(ランキング入り)だけど、貶されてもどうでもいい感じには思ってるだろうなと。人を信じる、というよりも、他人は埒外、って感じがとてもするから。


創作の目的やらモチベの話も、なーんか違うんだよなあ……と、いまいち共感できない。現実よりも創作に没頭するほうが楽しい、楽しくて没頭してしまう、というのは普通にあると思うんだけど。世の中クソだから自分の創作世界に浸ってたほうがマシ、ってのは普通にあるとは思うけど。なーんか、こう、違うなあ。と。

矢晴が本心からそう語っているのであれば、矢晴とは考え方が違って相容れないな、という気分にはなる。どうなんだろう。


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