受け取り方次第
創作物なのだから、その表現は読者の受け取り方次第でかなり千差万別な解釈がされる。
読み飛ばしてるのか読んでも即座に忘れてしまっているのか、心が受け取りを拒否して無意識に記憶から消去していたりもするのか。時系列が前後することでいつ起こったことなのかがわからなくなっていたり、表現手法が異なるから1回の同じ出来事を描いているものをそれぞれ1回でカウントして「2回あった」と受け取っていたりとか。同じものを読んでいても受け取ってる物語が違いすぎて、興味深かったりもする。
私は読み取った物語に間違いがないと認識したくて時系列をまとめたりするのが好きなんだけど、矛盾が起こると機能停止する感じはある。今は矢晴の「ちょうど1年前」にひっかかっていて、個人的な病(身体的な病気じゃなくて、ビョーキ)の発症もあいまって、かなりガタガタになってるなあ、と思っている。
あと、たぶん自分は矢晴の母親にかなり近いんだよなあ、と思うと、矢晴に失望される人間なんだ、みたいな気分になってしまって勝手に悲しくなっている。
今回の【第22話】は、もしこれが担当がついて編集というフィルターが挟まるものだったら、かなり曖昧なものになって矢晴の過去や現状、家族の姿や事件が伝わらないか「その程度で」などと言われそうなものになったんじゃないかな? とも思うし、もしこれが商業で発表されるようなものだったら、創作物の一例と現実の全てを混同して絡めて表現手法を人権問題にすることに超過敏な人たちから大いに叩かれてしまうんじゃないかなあ? という危惧は感じる。
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