否定
ここらへん、ちょっと文章がまとまらないなあとだらだらと考えているところでコメントをいただいたので、先にちょっとまとめてみたい。
とはいえ、これはたぶん矢晴の言う「己」についての理解が不十分な状態だから、結局とっ散らかるような気がする。
矢晴が否定されてきた経験によって、否定されることへの恐怖やなにをしても否定されるだろう不安を抱えているのは容易に想像できる。
それに対して、純が『否定された期間より』『褒められた期間の方が長いし褒めた人数の方がずっと多いのに?』と確かにそうではあるんだけれど、と頷けはすることを言ってくる。
矢晴が他人から否定されてきた期間はB誌での2年半、自分で否定し続けてきたのはA誌での連載期間、でおおよそ3年、といったところ。その後は思い出さないように酒浸りの1年で、合計しても4年。B誌に移るまでの物心ついてから24歳までのほうが圧倒的に長いは長いんだけれども。
純はこれまで矢晴のような経験がなくて、矢晴のように病んでないから、わかるわけがない、と思える。だからそんな簡単に言えるんだ、みたいに見える。
デビューして、初連載が大ヒットの売れっ子を、編集もアシスタントも否定するわけないんだし。顔も見えないアンチは普通にいそうだけど、純はそんなの我関せずだろうし。
矢晴の「己」フォルダには、たしかに褒められた経験とかもたくさん入ってるだろうけども、奥の方で圧縮されてすぐに取り出して確認できる状態にはなくて、ここ数年で経験して自分で何度も反芻して肥大化させた否定で埋め尽くされている、ということになっていると思う。
と、考えながら読んでいたら、その後の矢晴の創作のモチベーションの話が、簡単に言ってのける純への反発だったんだなあ、と裏腹加減に腑に落ちた。矢晴の話がちょいちょい納得いかんかったので。でも純にとっては創作が純の性質による孤独感からの逃避先にもなってはいるから、その点からは矢晴の言ってることに納得してそうな気はしないでもない。
直接の作品否定だとか人格否定だとかではないけれど、純自身が古印葵を推しても世の中は相手にしてくれなかった経験だとか漫画は自分しか救わない無能の紙屑とか思っているだとか、そこらへんを考えると、承認やら他者評価やらの話をしている時の純の語っていることに違和感がある。純って、そもそも古印葵を認めない他人からの評価に興味無いでしょ?
コメント
同じ日本でも時代や地域、文化や周囲の環境によって考え方も違いますし、まずそこで己が出来上がってゆくという説に納得です。
もしそこに新しい価値観で上書きされる事があれば、己が揺らいでしまうのにも納得できます。
矢晴は二年半のB誌での否定、A誌で連載再開した半年、それから一年のアル中生活で己の根幹となる所がグラグラになってしまってるんだろうなと思います。
褒められた記憶も圧縮されてすぐに取り出せない所にあるという表現になるほどと思いました。
それにしてもB誌での二年半は長すぎると健康な思考回路を持ってる人間は考えてしまうんですが、どう考えても逃げた方がいい状況から逃げ出せない人がいるのも分かるので、矢晴は逃げ出せない精神状態にまで追い込まれてたのかなと、勝手な想像をしています。
矢晴のB誌での期間、ほんと長すぎて、なぜ? と疑問でしかないです。理由は矢晴が明かさない限りは謎ですが。矢晴の性急さからいくと1回ボツになったらこことは合わない、ってA誌に帰っててもいいんじゃ? という気がしてしまうのに、なぜこんなに長くとどまってしまったのかと。気になります。