信頼できない語り手

 「信用できない語り手」とも。

【売れうつ】は矢晴の一人称視点で語られ、3人称視点で描かれる。

矢晴自身がうつ病で妄想に苦しめられ、アルコール依存症もあり、アルコールと薬の影響で記憶が曖昧。現状、断酒を決意したことでアルコールという逃げ道も塞がれて、1日のうちまともな思考ができる時間も短い。

これまで矢晴が語ったことがすべて事実であるのか、なにもかも包み隠さず語っているのか、と考えると、物語はまだ序盤で、まだまだ語られていないことも多いと思うし、意図的に隠していることもあるような気がする。(望海可純の漫画についての矢晴の気持ちなんかは特に語られていない)

矢晴の語ることのすべてが事実である、とする証拠もないが、すべてが妄想ということもない。どこまでが事実でどこが妄想なのかはわからないし、何を語って、何を語っていないのかもわからない。

そしてまた、物語構成上、この時点では語らないことや、語らせないことなども考えると、物語の語り手である矢晴も漫画という形式で描いている作者も「信頼できない語り手」と言えるのかもしれない。

この場合の「信頼できない」は、「語り手から得られる情報について、すべてを鵜呑みにできるほどの信頼がない」ことであって、語り手の人間性が信頼できないということではない。


ミステリであれば、「どこが噓か」「隠しているのはなにか」ということを推理していくことになるのかと思うが、【売れうつ】はミステリではないから、語られたことをそのまま受け取り、後で覆されても「そうだったのか!」と楽しめるだろうし、覆されるような内容だったとしてもどこかで「これは…?」と疑問を持てるような描写が挟まれるはずなので、安心して読める。

作者が読者を騙して、語られても匂わせてもいないことをいきなり開示して「実はこうでしたー」と読者をあざ笑うような仕掛けにはならないだろうという点では、「信頼できる語り手」だと思っている。


コメント