弱者じゃないのよ、矢晴は
【第11話】で、純の不用意な発言から、『他人に愛される弱者しか救われないって話ですか?』と矢晴の感情を刺激してしまったわけだけども。ここの一連の矢晴の話、けっこう重要そうなのに、純は途中で混ぜっ返しちゃったけど。
【第9話】でも、『どうしてここまでしてくれるんですか?』『私はダメ人間ですけど これじゃあさらにダメ人間になりそうな気が…』『あのまま放っていたら矢晴さん死んでたので』『ほっといたら死ぬだろうなって人私以外にもこの世にいくらでもいるじゃないですか』という会話があって。
矢晴は「ダメ人間」になりたくなくて、「弱者」として救われるのはプライドが許さなくて、世の中にいる不幸だとか弱者だとかの分類に当てはまりそうな人々がいるなか、自分だけを助けようとする純の意図に不信感しかない、かなー。「人の善意」を信じてない(信じたかったけど、これまでの環境・状況からまったく信じられなくなった)。ように、思う。
別段、心理学などを学んだわけでもないので、人の心はこうである、こう分析できるとかってー難しいことは知らないけども、作中の矢晴の気持ちを、作中で見える範囲から想像して、こうかな? と考えたいだけで。
【第11話】『好きなものしか愛せないのが人間の弱さですから』と、【第5話】『みんな他の人が言ってることしか喋りたくないんだ』が、奇妙に呼応する気がして。
純が古印葵を好きなのはけっこう特異なこと、というか、多少なり認められて短編集が賞をとっても、「古印葵のファン」はかなり少数。そのなかでもガチファンというか熱烈なファンというか、純レベルのファンは純以外いなさそう。
純自身も「自分の好きなものでないもの」については話題にしないだろうし、興味もなくて存在することすら忘れるだろうと思う。好きなものしか愛せないのは誰しもそう。
「弱者」に対する「施し」であっても、その「弱者」が「施しを与える者(強者)」に愛されていなければ「施し」すら受ける機会がそもそもない。みたいな話。矢晴のいう『強者の中で他人を愛する才能のある者』っていうのは「博愛主義者」ってことかなと思うけども。結局「博愛」だから、「弱者にも平等に向ける愛がある」ってことで、わりとやっぱり堂々巡りしそう、かな。そもそも「弱者だから助けてあげなければ」みたいなのが出発点になるのなら、「強者の傲慢」みたいなもんで。
純が矢晴を助けたいのは、「古印葵への愛」と「純のエゴ」。世の中の困っている人たちを助けたい・助けなきゃ、なんてことは微塵も思ってない。「他人へ施しを与える」ってわけじゃなくて、「古印葵だから福田矢晴を助けたい」しかない。
矢晴は、自分に救済が訪れたのが信じられない。救済されなければならない弱者になっているのが許せない。他人が自分を助けるために財を投げ出すことも信じられない。純が古印葵のファンだっていうこともあんまり信じてないんじゃないかな?
「大好きな漫画家の古印葵である福田矢晴が死にそうになってたから、劣悪な環境から引っ張り出して、清潔で快適で金の心配も生活の苦労もない環境を与えたい」っていう純の推し活。そして、純はその環境を与えられるだけの財力を持った強者。
そういう願望を持つ人は多いけども、現実問題、自分の生活すらぎりぎりだから、他人を飼う余裕がある人なんてのは少数。(こないだなにかの番組で「成功した芸人は、人間を飼い始める」と言っていたのが、なんだか印象に残って。)
矢晴は「働いて金を稼ぐこともせず、他人の世話になるしか生きる術がない弱者に成り果てた自分」が嫌なんだろうなあ、というのはこの物語が始まったときには語られている。【第1話】『私は働きもしないで赤子のように世話された』『こいつの瞳に反射して見える自分の姿は腐臭がするほど愚かで網膜を爛れさせる』『大人というのは働いて誰かに認められ対価を与えられている』
純の推し活なんだから、純の自由にさせて矢晴も自由に生活を満喫したらいいのにとは思うけども、人間としてのプライドがそれを許さないだろうなあ、とは思う。むしろ、「ヒモの才能がある人」というのは「他人の金でも気兼ねなく生活できる人・他人に貢がせても苦に思わない人」ではないかと思うのだが、実際ヒモの生活は「スポンサーの機嫌を損ねないよう家事をする」とかの労働は発生している気がする。
そういった点からも、矢晴にはヒモの才能はない。けど、矢晴は純から与えられた(というか押し付けられた)この機会を存分に活用して、心身ともに健やかな状態にまで回復してほしい。(でも一度うつになるとその思考回路は残っちゃうから完全に元には戻れないと思う。)
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