フィクションでエンタメ

 【売れっ子漫画家×うつ病漫画家】は、フィクションで、漫画というエンタメ作品。

フィクションの力というものは存分に発揮されていて、「これは私のことだ」とか「これは私の言いたいことを代弁してくれている」とか諸々、刺さる人には刺さる的なこともあり。

とはいえ、フィクションだから、矢晴の病状はうつ病やアル中の症状のうち、代表的なものとか、巷にあふれる体験談などからの取捨選択による抜粋であろうから、「これがうつ病のすべて」とか「これがアル中のすべて」とかでは決して、ない。純の対応も、純が矢晴に対して行っていることであって、「これが正しい対応」ということも決して、ない。

あくまでも漫画というエンタメ作品の登場キャラクターが患っている症状、対応としてしか表現されていない。

フィクションとしてのリアリティーをもって、作家の想像力と表現力によって、物語が紡がれている。そして紡がれた物語のなかを生きるキャラクターが魅力的で、彼らの行く末が見たくなる。ハッピーエンドは約束されているから、そこへ至るまでの彼らの物語が見たい。

「うつ病」というのが、精神疾患ということもあり、かなり取り扱いに注意が必要というか、患っている当事者からすれば、「エンタメとして消費するとはなにごとか」という向きもあるだろうが、「エンタメとしてでなければ表現できないこと」「エンタメでなければ表現できないこと」もある。

と、私は考える。


もし、この作品が、商業作品として世に出されたならば、「正しいうつ病の知識を啓蒙すべき」だの「信頼の置ける医療監修のもとで出版せよ」だのと、フィクションをフィクションとして済ませてくれない輩が登場するような気がする。

商業作品にはそれ相応の責任がつきまとうのはわからないでもないが、一度世に出された作品までもが、抗議によって作品内容を変えられてしまうという前例ができてしまった今、この作品が商業化を断ってくれているというのは、この作品が変わらない・作家の思うままの表現をしてくれる、という安心材料ではある。


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