【売れうつ】という作品について個人的雑感
第1話のキャプションにある『手の届かない範囲の好きな人たちが死んだり消えたりするたびに起こるスパダリになりたい気持ちから生まれた話。』という一文から、この作品を描いている溺英恵さんは「スパダリになりたい人」ということがわかる。
また、下書き状態とはいえ数日で100ページオーバーの手の速さ、すでに結末までのプロット(40〜45話分)が組まれているという超人的な手腕から、作家さん自身は「望海可純タイプ」と思える。
そんな「望海可純タイプ」の作家さんが描き出す【売れっ子漫画家×うつ病漫画家】という作品は、「古印葵の視点で描かれている」というのが、面白いなと思う。
作家さんにとって純が理想のスパダリなのか、というと描かれた狂気などからは、「理想とはなんぞや?」のような気分になってしまうくらい、望海可純はある種変態(褒め言葉)と思われ。【第6話】のキャプションでネタ混じりとはいえ『売れっ子を異常にすればするほど1話のキャプションが気色悪くなり後悔するが』と書かれていることから、「望海可純というキャラクター」としては「異常性」を盛っている模様。
売れっ子漫画家になるほど大衆に求められる人気の漫画が描ける望海可純が敬愛するのが、うつを患いアルコール依存になって落ちぶれた元漫画家の古印葵。この物語を望海可純の視点で描いたら、けっこうなホラーになるのか、傲慢さが鼻につくのか、献身的に世話をする純に対して恐怖を感じて怯える矢晴の様子に嫌悪感を抱いてしまうのか、などちょっと想像してみても、矢晴の思いや考えが見えないのはイマイチ盛り上がりに欠けるような気がする。
矢晴に焦点をあて、矢晴の内面を描写することで物語が進行し、ふたりの関わりを描くことで純の言動が矢晴にどのような影響を与えたかが紡がれていくことで、矢晴にも純にも共感できるのだなあ、と、思ってみたり。
作家さんご本人がうつを患ったことがあるからこんなに的確な表現ができるのだ、などとはまったく思わないのだけど、表現力が半端ねえな! とは思う。
実際のところ、「演技」や「表現」というものは、そのものを体験していなくても無限に広がる想像力で補えるものだと思っているし、本物でない分、より本物らしくなる気がするので。(なので、トランスの役はトランスの役者がやるべき論などについては、「演劇の敗北」とか思っている人間だったりはする。そこで「本物」持ってくるなら「演劇」である必要なくなっちゃうよね?)
もし、作家さん本人がうつを患ったことがあり、その時に純のようなスパダリが現れてくれたなら、という思いから描かれていたら、まったく違うものが生まれていただろうなとも思う。
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