比較と優劣と同列
編集部で、純が古印葵の漫画を褒めて、ついでに自分の漫画と比較して、矢晴が静かな怒りを溜め込んでるシーンが好きなのだけど。
純の家で、矢晴が人の感性に対して優劣はないと語るシーンも好きで。
また同じシーンで、矢晴が純と自分をひとくくりに同列に語ってくれたのも好き。
比較は、自分もよくやってしまうのだけども(反省)。純がまだいいところは、「古印葵の作品と自分の作品」を比較したところ。とはいえ、矢晴にとっては、各巻100万部レベルの人気の作品と自分の作品比べられたらたまったもんじゃない、とは思う。
「こことここが違う」という比較はいいと思うのだけど、「ここがいい。あれと違って数段いい。あれはダメだ」みたいな言い方は、どちらにとってもいいことがない。なにかを下げることでしか持ち上げられないなら、それは褒めたことにはならないと思う。褒められた方の価値も下がる。
余談だが、よく天才を描くために周囲を無能にするという表現があるが、描かれた天才が凡人に見えるので(探偵ものに顕著な表現ではあるが、無能よりも凡人のほうが比較的有能に見えるわな……という諦め)、もうちょっと考えてほしいと思うことはよくある。(今回、ちょっと古印先生を際立たせるためということでもないだろうが、純がちょっとバカっぽく見えてて、むむ…?という気分にはなった)
純が古印葵の作品をほめて、比較して自分の作品を貶しちゃう癖は、ずっと直らんだろうけども。同居1年後も、健在だから。
人の感性や特性に優劣はない。それは当然のことなのだけど、「誰かが・みんなが、褒めている作品に何も感じないのは自分が劣っているから」と考える人は多いのだろう。「この作品が理解できないなんて人としておかしい」とまで言う人もいるし。
この話は、【第5話 上薗純、曰く その(1)】での純の気持ち『きれいな花を見つけたのにどうしてみんな無視するんだ? みんな他の人が言ってることしか喋りたくないんだ』に対するアンサーにもなるのかなー? と少し思う。純がきれいな花だと思う古印葵の作品を理解できる人は少なく、理解できず・触れもせずに無視することだって、個々人の特性由来のものだから。
矢晴が純と自分のことを、『純さんや私みたいな人間が評価するのは映画的な…言葉であまり説明しないタイプの作品だと思いますが』『絵で理解する特性をもつ私達は』と、同列にして語ってくれたのが、嬉しかったなあと。
矢晴自身が、自分の作品を「言葉で説明しない映画的な漫画」と思っていて、それのファンだという純が評価するものは「映画的な言葉で説明しない作品」だから「望海可純の漫画は言葉で説明することが多くて野暮ったくて嫌い」まで認識してるのが、古印先生ー! と叫びだしたくなるくらい好き。
締めくくりに『純さんの漫画は言葉が親切です』『純さんの漫画を言葉で理解して楽しめてる層にとってそんな望海可純の漫画が変わるのは』『大好きな娯楽を失うのと同じことなんじゃないかな』と、読者の立場にまで立てる矢晴が、ほんとに素敵で。
福田矢晴のこの人柄が、純が好きな古印葵の作品を生み出してるんだなあ、と。福田矢晴自身に純が惹かれていく未来も見えるよう。ふたりで幸せになってほしい。
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