作品と作者

 作品から想像される作者像と、作者本人の実像、実際の性格とが乖離していることはよくある。この人間のどこからどうあの作品が生まれ出るのか、と疑問に思ったりとか、別人格レベルで乖離してたり。

私自身も文章と本人が別人、と言われてはいた。今はどうだろう……? という感じはあるけども。

そう考えると、純が矢晴に抱いていた『古印葵 福田矢晴は』『思っていたより饒舌だ』という印象も、作品から想像される作者像と本人が違っていた、ということにはなるんだろうな、と思う。

純にとっては、憧れの古印葵の元気な姿を見たのは授賞式の一度きり。スピーチはそれなりに練った言葉になるから、素の矢晴と古印葵の要素が混ざりあったものかな? と思える。短くはまとめているだろうから、「饒舌」というほどの長さもないと思われる。

編集部で会えることになったときには、すでに『彼の言動から察するに』『彼の自己肯定は一度破壊されてから再建されていない』状態であったから、憧れの古印葵も福田矢晴本人も授賞式で見たあの頃の面影すらない、ということにはなる。

作品と別人、以前に、数年前の本人と別人、にはなっている。

ついでに、矢晴は酔っ払うと馴れ馴れしい人間でも平気そう、らしいのが『……けど素面のあの人馴れ馴れしい人間がすんごい苦手そう…』という純の言葉から想像できる。酔っているときと素面のときとも、性格が異なるということになろうか。

今の状態、どれが一番、もとの福田矢晴に近いのかな? と考えると、同居5日目の純のネームにアドバイスしたとき、同居6日目の思考の共有で穏やかに話していたとき、くらいだろうか。それはそれとして、作品に込めるような情動も心のなかには確実にあるのだろうな、と思う。

けど、八つ当たりのような激情や怒りは、矢晴としても好ましくないと思っている感情だろうなあ、という気がする。

矢晴自身は『もっと正直に矮小なものでいたい』とは言うけども、ちっぽけで平凡な感じを望んでいるのかというとちょっと違うような気はする。でもここの矢晴の言葉と古印葵の作品は、作品から想像される作者像と本人の違いを表していそうな気がするなあ、と思った。


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