地獄に仏

 なにかと宗教的モチーフの多い【売れうつ】だけれども。

最初に仏(仏像)が出てきたのは、純に同居を迫られて布団のなかで動けないでいるとき、かな。

『なにも考えずなにもせず全ての憂鬱が消えてほしい』の背景がブレブレの仏像なあたり、純の存在が地獄に仏かもしれないけど、虚像である、みたいな感じなのかしら? と考えてみたりする。

矢晴がアル中やらうつやらなんやらと病を得て、地獄のような悲惨な、無気力な1年を過ごしていたところで、降って湧いた純の援助の申し出は、まさに地獄で仏に会ったよう、といった感じはするけど、矢晴はそれが純粋な善意からの援助だとは思わない。

純の“慈愛”と言う言葉に恐ろしいものでも見たような表情で起き上がった矢晴が純に『性欲を慈愛だとか清潔な言葉で飾りやがって』『きったねえ欲望を蓮華座に乗せてんじゃねーよ糞野郎』と罵倒する背景には、蓮の花の上に乗せられた首が落ち溶けている仏像。

【第15話】の表紙は菩薩に扮した純が手に矢晴を乗せて愛で、そして食べてしまう図。

純自身は、矢晴を助けるという行為が「排他的で残酷。自分の残酷さを直視しない」としていて、『同情だけで他人の腹は心は満ちない』と思っているから、金も手も出す、ただし矢晴限定で、という感じだろうか。別に仏のような慈悲でもって憐れな人々を助けようとしているわけじゃないんだよなあ、と思う。

特定の一人だけを助けるのは、矢晴にとっては「善意からの行動ではない、それは欲望だ」という感じなのかなー? とは思うんだけど、純にとっては実際なんなのか判断できるだけの材料がないような気がする。「古印葵への愛」だけは確実にありそうなんだけど、最近その愛すらもかなり歪に見えてきて、憧れの尊敬する作家だけではない感じが、本当に古印葵の漫画は良いものなのかどうか……という疑惑すら生んでしまい頭をかかえる。賞をとれるほど評価されているという事実がどうにか踏みとどまらせてくれる感じはする。


矢晴がやたらと純に善意を求めているというか、特定個人だけへの援助を咎めるというか……これも自己肯定が破壊されている故、自分は助けに値する人間じゃないとか思っているからなのか。とかも考えるけど、もしかしたら、【第11話】で純がテキトーぶっこいたふうな『それが矢晴さんの漫画の才能ですよ』って言われたのに無意識に拘泥しちゃってたりするんかな……? という気もする。

と、どんどん話が逸れていきながら、まとまらず。


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