インプットとアウトプット

 矢晴は漫画読まなくなる前は相当量の漫画や文学作品などを読んで、映画を観て、とインプットとアウトプットのバランスがとれてたんだろうなあ、と思うのだけど。

漫画読むのが辛くなってからは絞り出すだけで、ことごとくボツにされて、ってので、漫画読まなくてインプットもなく、アウトプットしたものは否定されてって生活じゃあ、枯渇するよねえ……って感じなんだけど。

漫画読まなくてもなにかしらインプットし続けないと生きられない人なのかもなあ、と思うと、論文読んだり、その手の本読んだりはし続けてたのかなあ。漫画は読めなくなっても本を読むとか文章を読むってのまでは無理になったわけじゃなさげなのが幸いか。(私は小説が読めなくなってからは実用書をやたらと読んでたから、そんな感じなのかもなあ、と思ったりする。)

今、矢晴が純に対して吐き出してるのは、そうやって蓄えた知識の整頓であって、創作のためのアウトプットにはなってない。矢晴が純に『全部お前にやる』とか言っても、「古印葵の全部」の「ごく一部」すら純に伝えてなくない? と思える。

創作するアウトプットが、矢晴の言う「形に昇華する」で、矢晴にとっては「漫画という形にする」ってことなんだろうなあと思うんだけども、いまのところ、矢晴は漫画という形に「アウトプットできない」と思い込んでて、「アウトプットしようともしてない」のと「アウトプットしたいと思っているのかどうかすら謎」みたいなところがある。

ただ、吐き出さないといられないというのもわかるから、純が聞いてくれる今の環境はとても良いのだろうなと思って。吐き出せば吐き出すほど、なにか入れないとすまなくなるし。これで漫画読み始めたり、映画観始めたり、本読んだりして、良質なインプットが増えれば、自然と創作意欲がわいてくるだろうなと思うし、それが1年後の『二年ぶりに漫画を描いた』につながるんだろうから、やっぱり漫画読んだりしてくれるようになるよねえ? とワクワクしてる。

創作意欲をわかすのに一番いいのは創作物にふれることだし。それが純の漫画だったら、いいんだけどなあ! と期待している。


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