ダサいとはなんぞや
矢晴も純も「ダサい」「野暮ったい」を嫌っていて、純が評価する古印葵の漫画は「セリフが洗練されてて」「センスがあって」「漫画の中で一番かっこいい」。
そもそも、「ダサい」ってなんなんだ? 「野暮ったい」ってどういうものだ? と、センスのかけらもない私からすると、まったくわからない領域ではあって。それぞれ各個で基準が違うし、語義や定義が異なって、一律で測れるようなものでなく。逆に定義が違うことによって便利に使えてしまう言葉かな、と思う。意味合いが広すぎてとりあえず言っとけば通じるみたいな。
純は自分の漫画を「古臭い」「野暮ったい」「ダサい」「センスもいまいち」とかなり酷評するわけで。
状況的に、純が四階をやりこめた後の、『空気は冷たいドブの中のような「最悪」になっていた』ような場所で、どれだけ褒められても矢晴には響かず。普通の状態で純が自作を貶さなければ純の言う『漫画の中で一番かっこいい』という褒め言葉は矢晴にとってかなり嬉しい言葉だったのでは? と思える。
【第11話】で矢晴が影の入れ方について話したときの純は『へえ〜〜なるほどなぁかっこいい…参考になります』と褒めていて、矢晴は耳まで染めて照れてたことから、矢晴にとっての「ダサい」は「かっこ悪い」ことで、「かっこいい」という褒め言葉が一番響くのかな? と思える。
【第13話】で純の回想の居酒屋での一幕では、人の悪口を言ってしまったことを「ダサい」と言ってるけども、簡易に翻訳してみると「気持ち悪くなるほどかっこ悪い」ということかなー? と考えてみたりした。
打ち切りにした連載も『自分の名前で発表したくない……』と思うほど、「ダサい」「かっこ悪い」ものだったから、『ダサくなりたくないからもう二度と漫画描きたくないんですよ』となった。純にとってもこの連載作は『どうしてこうなった?』レベルのものだったから、相当、「ダサかった」んだろうなと思える。
矢晴にとっては、連載作の出来もそうだけど、その時に生活のために原稿料が欲しくて担当の言いなりになってしまった自分のマインドが「ダサい」「かっこ悪い」ということにもなるんだろうなあ、と思う。
純にとっての「ダサい」は「野暮ったい」が一番大きいようには思う。純自身も「野暮ったい」を多用して、矢晴が純の話を聞いて『セリフも絵も野暮ったさを嫌う人だなあ』と思っているあたりに矢晴と純の「ダサい」の定義の違いが見えるように思う。矢晴は純の漫画を「ダサい」と思ってなさそうだし。
だから結局「野暮ったい」ってどんな状態なんだ? という疑問は残り続けるうえに、解決しない事柄ではあるんだけども。
ただまあ、純が純の言うところの「野暮ったい」から脱却してしまったら、それは「望海可純の漫画」ではなくなってしまって、現在の「望海可純ファン」を振り落として厳選してしまうような気がするので、野暮ったいままでいいんじゃないかな……? と密かに思う。矢晴からも言われてるし。ね。
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