好きと嫌いと
【第17話】で『お前が嫌いだからお前の手で私は楽になってやる』というのが、矢晴の、死んで楽になりたい気持ちと、純のことが好きだけど言えない気持ちと、純のことが好きな自分が嫌いな気持ちと、純に自分を刻みつけたい気持ちと、なんかごちゃごちゃしてるのかなー? と思うのだけど。
もー、矢晴ったら、純のことが好きなくせにーー! と萌え転がりつつ。
翌朝には、純の漫画の特定の一部分だけとはいえ、『好きだ』と言えて。
前日の昼過ぎに、純の漫画を読むか読まないかで逡巡してたときも、【第14話】『もしシヴァ・アンバーが嫌いだったら』『好きでもない作家に依存しなければならない現実に私の心が耐えられなくなるだろう』と考えながらも手をのばしてるという思考と行動の裏腹ぶりがかわいんだけども。
漫画を読むのが苦しくて読めなくなってた数年間に対して、純との同居1ヶ月で、目の前に放置されているからとはいえ、純の漫画を読んでみようと思ったり、「好き」とか「嫌い」とかの心の動きが出てきたり、それこそ、純に対して恋のときめきなんてものもあったろうな、と思うと、この同居生活がどれほど矢晴の心を癒やしてきたのか! みたいに思って、純の手腕を褒め称えたくなる。
同居してて朝から晩まで同じ家で過ごしてるといっても、純は仕事があるし矢晴は寝込んでるしで、1日のうちの数時間くらいしか一緒にいないのに、こんなに矢晴の心が前向きに……と思うと、やっぱり、快適な住空間を与えて療養に専念できる環境を整えてくれて世話してくれる純が矢晴の前に現れてくれてよかったわあー、と思う。
憧れの古印先生の世話をしたい下僕(金持ち)の純、とかの関係でも全然かまわんけども。
矢晴の意識としては、金持ちの道楽で飼われてるとかだったりするー? とか思うけど、さすがに道楽で下の世話までできないだろうとか悩んじゃっての【第15話】の『そうだけどそうじゃなくてだって赤の他人の介護みたいな世話だよ? どうしてできるの?』って質問なんだろうなあ、って思うんだけど、やっぱり「私の下の世話までできるなんて、私のことが好きなの?」みたいなことを聞きたかったんだろうなあ……って思うんだけども。
ここで「私のことが好きなの?」って聞けてたら、話はもっと簡単だったろうな、と思わんでもないけど、もし「古印先生だから」とか言われてたらもっと大変な夜になっていたかもしれない、とか思うけど。
純の前でなにかを「好きだ」と言ったのって、同居前の居酒屋でしこたま酔っ払って映画の話したときくらいだろうし、矢晴が純に対して純が好きとは言えてなくても、純の漫画を好きだと言ったあの瞬間は記念すべき第一歩、という感じがする。
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