母なる海、希望の海
お母さんごっこや慈愛のことをまとめようかなと思いつつ、Twitterで興味深いお話をされているのを、うんうんなるほど、といつもこっそり拝聴している。なるほど。
逆読みやアナグラム、ひとつの事象・名前にいくつもの意味を込められる作者さんだから……、うんうん、なるほど……と、ずっと頷いている。
で、本題。
矢晴は純から『赤子のように世話された』と言い、ベッドで歯磨きされ、台車で運ばれ、おにぎりを口に押し付けられている。
純は矢晴がうめいているだけで意志を汲み取り、それが正しく矢晴の意志なのかどうかはわからないが、『矢晴の五臓六腑は働いてるよ 食べてるところ見せてほしいな〜』とか『働いてないのに風呂を使うと光熱費がかさむって? 矢晴の服も皮膚も洗われたいって言ってます』とか、扱いが確かに子供なんよ……子育てなんよ……、とは思う。
ただ、なにかしら人の世話をするときに警戒心をときたいとか安心させようとかがあると、子供を相手にするような言葉使いになるものなのかしれないなとは思う。ことさらに謙って相手を崇め奉る方面よりは健全では……? とも思えるのだけど、どうなんだろう。
矢晴の粗相を、怒りもせず、風呂に入れて体を洗ってやり、汚物に汚れた衣服を素手で洗い、といったあたりも、「母親が赤子のおしめを変えて、それを洗う」といった感じの印象を矢晴に与えているのかもな、と思うのだけど。我が子の汚物は触れるが他人の汚物は触りたくない、のはごくふつうの感覚になるのかもしれない。
そしてまた、純は矢晴が『なあ……私のこと幼児だと思ってるのか? お母さんごっこか?』という質問に対して、『人間ってみんなもともと子供だろ?』と返す。「幼児だと思っていない」「お母さんごっこではない」とは言ってないところが、ちょっと巧妙かもしれない。
純にとっての「慈愛」がどういう意味かはよくわからないが、矢晴が受け取った「慈愛」という言葉は「親が子供をいつくしみ、かわいがる」=『母性ぶって支配しようとしている』になるのだろうなと思う。
子供扱いしやがって、ムキー! みたいな気持ちもあるかもしれない。矢晴は性欲もちゃんとある成人男性だもんね。
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